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「珍しいね、精市がくるの……」
何度か見たことがある、そのピアノの前には座っていた。
入り込むことはできず、ドアの影からこっそり見て……たまたま居合わせれば静かに耳を澄ました記憶が蘇る。
「この間もそう言ってたな」
「だって、『前』も……精市は来なかったし」
『前』――単純に今までではなく、怪我の『前』のことだと俺には直ぐ分かったが、同時に密かに覗き見ていた過去の罰の悪さがコメントを難しくした。
さっきまで悩んでいたくせに……と思いながらも、何か言葉がないかと続きを待った。は何も言わずただ躊躇いがちに指を動かした。
もう用事はない、といわんばかりに弾き始めている。彼女はどんな会話を求めてるのだろうか。
少し考えて、さきほどの理由を付け足した。
「ここはの場所だから。コートに土足で踏み込むわけには行かないだろう」
「そんな場所ないよ。……ここは戦場じゃないし、音楽は聞かせるためのものだから」
未練もなく言うと曲が軽いワルツに変える。
「これくらいなら」と納得しかけて、言葉に詰まった。指先が鍵盤様子をちらりと見てしまったからだ。かなり技巧にとんだ方だとはすぐにも分かった。
手は確かに完治しているようだ。
それでも「ならば何故」ときくことは躊躇う。
は鍵盤のふたを下ろしてしまった。名残惜しそうにその手をとめたとき、確かに「続けていい」と言おうとしたのに、生憎声にはならなかったようだ。
「帰るが」
どうする?
目で問掛けるまでもなく、はピアノを離れる。
うつ向き気味だが口元が緩んでいて、嬉しそうに見えた。
西日に影がさし込んで部屋が暗くなるが、暖房の残りかほのあたたかかった。冷めつつあるとはいえ、運動後のだるさのある身としてはどうにも居心地が悪い。
の右手には美術の画材セットが重そうに揺れていて、邪魔に思えた。俺がラケットと一緒に持った方が早く帰れる。そう思い、引き寄せたが、は慌てて荷物ごと手を引っ込めてしまった。
最初は遠慮かと思ったが違うらしい。手首にはところどころ紫の痣が残っていて、自分の功罪を訴えられるようだった。
「痛そうだ。すまなかった」
荷物を引き受けがてら肩を寄せる。
……と、ふと惑うような瞳にぶつかった。
「……ていい?」
「え?」
小さな唇から溢れた言葉の意味が一瞬飲み込めなかった。
《キスしていい?》
それはからの始めての誘い文句だった。
※ ※ ※ ※ ※
「かまわないが……わがままは言わないんじゃないのか?」
――ねだれとそそのかしても乗らなかったくせに。
『頼まれるとしたくなくなるものだろう?』そう切り返す気がどうしたものか。
それは衝動だった。
駄目か、と溜め息を落とす彼女の顎を掴んで舐めた。
声がもれ、少しかかった甘い吐息が、熱を誘発する。
「もっとしたいって……顔してた」
離した隙に消えていくその感触に、物足りなさが募るのはこちら。
勝手な理由をつけて、ゆるゆると舌を差し入れ、歯の隙間を擽るとはかすかに身体を退く。
ここまでしたことはあまりなかった。どこかでやりすぎてはまずいと、ずっと調節がきいていたのだ。
――今はまずい。
たかが外れているのが分かる。
しかも頭は理解できてもとまりそうもなかった。
髪の毛に指を埋め、腰に腕を回し、深く貪っていくうちに考えることもやめてしまった。
欲しいのは熱か、あるいは熱を冷ます何かで、の細い髪が指にからまるくすぐったさや、合間の意味をなさない声や柔らかい躯をもっと近くに……危うくば直接感じたくて、抗議させないよう唇を打算的に塞ぐ。
そういう計算だけ機能するようだった。
かろうじてもっていた鞄を床に落とし、腰を抱いた腕、指先を無遠慮にスカートの丈もとまでに落としていく。
そこよりも冷たい、別の体温にが足を退く。
――追い詰めて一段高いピアノの側面に挟みこんでしまえば……
そんなとめどなく危うげな……いってしまえば自分とて逃れられないこの年頃の男子の欲求だが、そんな思考に支配されたとき、下で流れていたトランペットの音(吹奏楽の個人練習だろう)がやんで、バタバタと、明らかに近づいてくる足音が聞こえた。
――入ってはこないだろう。
そんな計算で、弱い抵抗をしめすの肩を押す。
「まって……」
「待たない」
の声は邪魔にはならず、そう高くなくてももっと聴きたかったのだけれど、そうもいかない。流石にここではまずい程度に理性は取り戻せていたから、熱を誤魔化して、もう少しだけ、と唇を重ねようと顎を捕らえた。
はかったようなタイミングでなかっただけマシとするべきか、あるいはイッソもう一度貪ってしまえれば飢えも癒えて満足できたのか。
其の刹那、邪魔をしたのは、ではなく……
「何してんだ?」
ドアを開けて飛び込んできたチームメイトだった。
「なんてお約束な……」とタイミングの悪さを思う半面、「そういうのではないから」と言い返せる自分がいる。
余裕が戻っているようだった。
単純な欲求不満だったのかもしれない、と思いながら、
「帰ろう」
空気の気まずさを壊すために言って、手を引く。
今度は怪我には注意をした。
ブン太は気持ちのいい友達で、チームメイト。懐いてくれているし、いざというときは頼りになる、男らしい一面も持ち合わせている。
ごときのせいで、関係を壊すのは忍びない。
手首の痣は弾みでのことで、こちらが反省してるだけに罪悪感もあった。
が、優しく取ってしまったせいか。
柔い指先の感触に、たまらない感覚が蘇り、またあらぬ方向に思考が走りかけて焦った。
息をふきだして、それを違う意味合いでのため息にごまかし、心を静めると、
「ちょっとからかっただけだから。安心して」
ブン太にそう言って笑ってみせた。
には、今回ばかりは少々後ろめたさもあったから、撫でるように指を絡ませて(やりすぎると不味いことになりそうなのでほどほどにしたが)、
「は送っていく。近所だからな」
「あのなぁ」
ブン太は呆れたの様子で、声を荒げたが、「なら任せた。さっきまでいたから、アブねーと思ったんだよ」と理由を付け足した。
「てか、あんま苛めてんなよ。言う筋合いないけど、どこまで本気かわっかんねーから見てて辛いし」
「うん」
「……校内で、ソウイウ『っぽい』ことすんなって……ばれたら大変なの、幸村君じゃん」
――心配してくれてるのは、が主なのだろうが俺もか。
何だかんだで憎めないのは、ブン太のこういうところだった。
「肝に銘じておくよ」
「うんにゃ」
の肩を気遣うように、ぽんっと叩いてから、ブン太はこっちに、逆側のドアからでていこうと――俺の方に近づいてきた。
「邪魔した――でも、あやまんねぇから」
通りすぎる瞬間、いつだか俺がにしたように、俺だけに聞こえるように言葉は漏らされた。
――故意か……。
状況に気付いていて、入ったのだろう。
「じゃあな、も」
「あ、うん。バイバイ。ブンちゃん」
ごくごく自然の挨拶をに向けて、俺にも「朝練、明日は遅れねーからまかせろぃ」と普通に笑っていたが……
――あれは……。
宣戦布告、されたのだろうか。嫉妬?
「――」
あまり考えたくないヒント(ブンちゃんのキーワードも含めて)をかき消すように、「何?」と尋ねる彼女を無性に引き寄せる。
今更何かするわけにもいかず、ただ、俺も口ずさんだ。
もう一度だけ抱きしめて。
「謝らないから」
理由なんてなかったが、瞬間は何かが収まった気がした。
to be continued……
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