1、呼ぶ声
「起きてるかぴょ?……ん?寝てるぴょ」
ぱたぱたと走る足音と、ドア越しの幼い声に、跡部ははっと目を覚ます。
ベッドサイドを見れば時計の針は既に十時を回っている。
休日とはいえ自分らしからぬ失態に「ちっ」と舌打ちが出る。
だが……。
よからぬことを思いついて、そのまま枕に顔を鎮めた。
* * *
「もう、しょうがないぴょ」
幼いその声の主、はドアを数回ノックして、義兄起きていないことに気づくと、「んしょ」と掛け声をかけた。
ぎぃーっと音がして、扉が開く。
「跡部?寝てるかぴょ?」
予想通り気配はおずおずと近づいてきた。
――目ぇ瞑ってるのがもったいねーな。
どんな様子か音と雰囲気で判断する他ないのだ。
「どうしたかぴょ?」
覗いてきているに違いない、ごく近くで音がして、息がも跡部の耳を掠めた。
「起きるぴょ」
「………」
「『お兄ちゃん、起きて?』ぴょ」
――なんてこといいやがる。
ちょっとしたら脅かしてベッドに引きずりいれ、スキンシップ(と言っても朝だから本当に可愛い程度のじゃれあいだ)でも――と思っていた気分が台無しである。
忍足辺りなら喜ぶところ(?)だろうが、跡部はそうも行かない。
『何が哀しうて惚れた女に(まだ見かけ、ガキだが)兄呼ばわりされなきゃならないんだ?!』という想いがある。
なまじ血の繋がらないキョウダイだけに深刻な問題であり、彼女の発言はいわば地雷であった。
――少しは覚悟してもらわねーとな
「起きてくれないと寂しいぴょ」
……だなんて可愛い台詞も聞こえるが、とことん起きないことにした。
「名前、呼べよ」
「……やっぱり起きてるぴょ」
起きたことだけは示して、起き上がってはやらない。
――お前が悪ぃんだぜ?
そのまままた寝ているふり……
「跡部、起きてぴょ。今日は一緒にテニスする約束だぴょ」
「………」
「跡部」
「……」
「なんて呼べばいいぴょ?」
「さあな?考えろよ」
行き詰った彼女がこちらに身を乗り出しているから、その腕を掴んで倒してやった。
自分の上に倒れこんでくる義妹のちっちゃい身体を抱きしめて、がっちり捕まえると「苦しいぴょ!何するぴょ!」とばたばたしだした。
とりあえずキスで黙らせておく。
――これで許してやってもいいんだけどな?
「浮かんだか?」
それでもどうせ目覚めるなら名字じゃなくて兄貴なんて呼び名でもなくて名前がよくて……
我侭に笑うと、困りきった顔でこちらを見ていた義妹が急に赤くなって目を逸らし始めた。
そわそわしている様からすると、どうやら本当に浮かんでないわけでもなさそうだ。
「どうだ?」
「……景吾……ぴょ?」
「きこえねーな」
「だ、だって可笑しいぴょ!今までだって……だって……」
無頓着に一度は呼んでくれた名も、馴れの問題ですぐに「跡部」に戻ってしまった。
それ以降彼女は絶対名前で呼んではくれない。
抱きしめたぬくもりの温かさは与えてくれるくせに、どうしてかかたくなにそれを拒むのだ。
「駄目、か?」
――おい、マジで嫌だってんじゃねーだろな?
不安もある。
どっかの馬鹿が一般的なキョウダイ観念などという阿呆なことをいつ吹きこまないとも限らない。
――候補は既にいるしな。
千石清純というたちの悪いnot「清純(きよらか)」な候補が。
だが、流石に焦らしすぎたらしい。
緊張に耐えられなくなってしまった彼女は拗ねてしまった。
「跡部は意地悪ぴょ」
いいぜ?それでも――。
そう言ってしまいたかったが、ここは譲るところだ。
仕方なく跡部は彼女の色素の薄い髪の毛をかき回して、
「ま、それも悪くねーな」
髪の毛に口付けた。
「何がぴょ?」
「『跡部』ってヤツだよ」
「……呼び方、ぴょ?」
同じ名字なのに呼ばれてるとキョウダイとは思えないからだが、これはまだ秘密。
――どうせ、義妹(コイツ)にはそこまで深く分かってなどいねーんだろ?
悔しいけれど年の差は縮まらず、悔しいけれどそれを教えてしまうことは彼女との距離を離しかねない。
意識されなくとも、この自分が触れられる領域に彼女を縛り付けられるのならばその方がよかった。
「『跡部』ぴょ?」
「起せよ、それで」
「跡部、起きて欲しいぴょ?」
「たりねーな」
キスを一つ落とす。罰ゲームみたいに。
まずは柔らかい頬に。
「跡部」
泣きそうな彼女の瞼に――追加。
「跡部、起きてぴょ」
指先に追加。
「……遊んでるぴょ?」
目を瞑って聞いてもふわふわした声色が心地いい。
「跡部?」
唇をたどって、額にキスをしたところで、
――眠ぃ……
眠さを誘う呼び声に跡部の意思はプツっと途切れた。
「好きぴょ」
最後の言葉は夢の中では聞いたのだろうか。
「――…… ……――」
何やら寝ぼけながらも囁いて、跡部は義妹を一層優しく抱きしめ直した。
じたばた暴れていた彼女だが、諦めてそのまま寝てしまうのにはそんなにかからなかった。
そして……。
『跡部――』
そう、彼の頭の中でふる声の主、天使は誰の名も呼ばなくなり、やがて逆に彼女が彼をここに呼ぶのだ。
『…… ――』と……ただの妹と同じ、代わり映えのない呼び捨てで……ただし誰よりも優しい呼び声で。