02.ナミダ

「泣いてんのかよ?」

 不遜な声にその黄色い塊――はぷるっと震えた。
 偉そうで、不機嫌――跡部という人間を体言したかの響きは静かに、窓際の千石にも届いた。
 ――あーあ、何で、いるかなぁ。
 部屋の主に会うより先に、彼がいることを知らされた千石は誰にともなしに肩を落としてみせる。
 カーテンの影から再びコッソリ覗けば、今度はベッドサイドには帝王さまが腰掛けているのが見える。
 了解済みの光景だ。
 だが違うのは、その指先だった。
 彼の手は少女の髪の毛を優しく撫でていた。
 見てはいけないものを見てしまったような気がして、千石ははっと身を引く。
 ……が、遅かった。

「泣くなよ」

 彼が引っ張って、攫うように抱きしめた少女。
 赤く腫れた顔は見えないが、か細い涙の音色と、しっかり彼の腹に回された手――身長上、他はとどかなかったのだろう――それが見えてしまったのだ。
 ついでに彼の困惑しきった、見ようによっては「切ない」表情までも。

「おい、今度は何を吹き込まれたんだ?」

「……跡部には関係ないぴょ」

「関係ねーわけねー」

「兄妹だからかぴょ?」

「馬鹿なこと言ってんな。怒るぞ?」

 ――俺、デバガメじゃん。……て、何で景吾も気づかないんだろうね。
 アイツの前のほど分かりやすい子なんていないのにさ。

 どおりはふるふる顔をふりながらも、必死に跡部に抱きついているのだ。
 直接的に答えは言わずと、回答の趣旨はとうに出ている――千石の観察は極めて正しい。

 カーテンの中におさまっても、テラスからの月明かりで二人の影はいやがおうにも浮かび上がる。見たくなくても見せ付けられるとはこのことだ。
 さすがの千石も、の涙を見たいとはもう思わないけれど。
 後にも先にも彼が彼女にみせられた涙は一度だけ。
 それ以上、が、あってはいけないのだ。

「……言いづれーならいい。でもコレだけは答えろ」

「ぴょ?」

「俺のことで泣くな」

「別のことでならいいぴょ?」

「馬鹿か?」

 ――うわーくっさい台詞……。
 それでも跡部の口は止まらない。

「――……他の男のことだったら殺してる……」

 聞こえてしまったのは耳を塞がなかった千石が悪い、ということになる。もっと言えば「侵入するな!」だが、それは最早日課なのでここで議論しても仕方ない。

「おい……」

「何だぴょ」
 
 拗ねた少女の声は今度は弱弱しくなっていた。
 女とも子供ともつかない危さは酷く人を誘うもので、正直近くにいなくてよかった――と呼ばれていない来訪者は安堵する。
 それは彼をしても同じだったのだろう。

「どうしたんだ?らしくねぇぞ?……お前――」

「……――……兄妹は結婚できないぴょ……」

「――っ……」

 ――あちゃあ。何いってんだ、ここでそんなこと言ったら、食われちゃうよ! 
 案の定、跡部の腕が少女を攫う。ゆっくり抱え上げる。
 おもちゃにするように、でも、それにしては随分優しい調子で「高い高い」するみたいに持ち上げると、

「お前、俺とずっと一緒に居てぇのかよ」

 帝王の笑みが覗く。
 甘い空気が流れていた。
 ――『可愛いな』じゃなーいっ……。て、どうしちゃったワケ?「跡部君」
 これこそマズイぞ。
 千石は思う。
 経験が告げる。
 無理やりアダルティな方面に向かわれても色々と自分の中の男をみせつけられるようで嫌だったが、これはもっと危ない。いわば新居にベルを押さず忍び込んだこそ泥、あるいは壁の薄いホテルで、ハネムーンカップルの隣の部屋に陥ったシングルの気分。
 しかし、それもまた予想を裏切られることになる。
 跡部が帝王なら、で生まれもって一番上にいるタイプの人種だった。

「駄目なのかぴょ?」

 あんまりに素直な答えに帝王は面食らったようだ。
 引き寄せて涙を舐めてから、

「なわけねー」

 アマヤカしている。
 何かに突入するよりはそのまま眠ってしまう穏やかさだ。

「いいか?……。俺らはな、兄妹だけど兄妹じゃねー」

「ぴょ?」

「―― 一緒には居られる。それでも駄目なら何とかしてやるよ」

「ぴょ!さすがは跡部ぴょ」

 満面に笑みを浮かべているに違いない無邪気さと、跡部にそこまでさせてしまう女の子な部分を考えてさせられるシーンだった。
 ――やれやれ、帰るかな俺も……。
 無言の訪問者はさっとバルコニーの逆側から窓に足をかけて、部屋を出た。
 ――それにしてもズルっ……王様には何でも出来るかもしんないけど、一般人はできねーっての。
 少しだけ、素直にあの女性を思い浮かべて、我がままな本当の願いを思い浮かべると、千石は窓を伝って、庭に下りた。
 部屋から少し離れた箇所まで来ると暗い少女の寝室をもう一度仰ぎ見る。

 ――幸せになれるといいのに……

 誰にでもなく呟いて。


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