「退けぃ、退くのだ!!」
後方から押し寄せる紅い波。
熱と風を連れた若武将が叫べど、先鋒はもう見えず、
近場にいる足軽と、かろうじて残った騎馬隊の一部がその目にわずかに生気を取り戻すばかり。
だが、決して戦況をひっくり返すには至らない。
「アンタら、何してんだ!!今は仲間割れしてる場合じゃないだろう!」
姿を滅多にあらわさない深緑の影が、黒い鳥を連れて間の忍びを屠る。
いくら扱いが高いとはいえ、真田隊のみならまだしも武田の中でも忍びがこのような発言を許されるわけではない。
だが、それほどに状況は切羽つまっていた。
「急げ!」
織田家には同じ甲賀の忍びも多い。忍び――佐助としても余裕はないのだろう。
二人は敵を蹴散らし、味方を下がらせて、足場の悪い長篠を駆け抜ける。
赤揃えのものだけでももうだいぶ数が減っている。
武将の数はいうまでもなく、見渡す限りに倒れる馬――そして人。
泥と馬の側面に挟まる首はこれから刈られ、拾われ、いらぬものはそのまま鳥や獣の餌となる。
「旦那、山本の旦那が!」
「うむ」
幸村は大きく左に旋回。
二槍を操り、相手を薙ぐ。距離を詰めて、確実な味方――山本勘助を捕獲すると、灼熱に風を起こさせ、後方に飛ぶ。敵から逃れる。
その隙に、佐助は仕掛けを展開。
待機を命じていた使いの鳥を、低く飛行させ、相手の狙いを逸らさせた。
「あれが南蛮の……」
「種子島(火縄銃)だ。それはいい。兎に角今は!」
「分かり申した」
いったん、迫る追っ手から体をよけながら幸村は陣を後にする。足の悪い勘助は早々に佐助が才蔵に任せている。
陣は翼包囲を狙う図。左右の両翼、どちらかが敵陣を迂回突破すれば勝機はあった。
だがそれより早く中央の部隊が崩れたため、この大敗だ。
内側にいて状況は見えづらい。だが、幸村には十の目――忍びがいた。恐らく戦況だけは誰より把握できている。
とはいえ、限界もある。
「内藤殿は?」
中央と幸村の布陣、右翼以外が分からない。
才蔵の背から勘助が答える。
「討ち死にを」
「そうか。左も絶望的か。中央から崩れ、こちらも被害を出した。馬場殿はなんとか永らえているが土屋殿は……」
……と、そのとき、本能寺後の織田残り組(前田、徳川、豊臣連合)の、別動隊が左目に確認できた。大きな鷹と熊を伴ったものたち。
――あれは、前田家……。風来坊がいないことがせめてもの救いか。
遊び人よと叱っていた幸村だが、この状況でもしも慶次のいる軍にぶつかったらと思うとぞっとした。
武田が生き延びるまでを見届ける。それが今や幸村を生かす原動力になっている。
「佐助!忍び隊を前へ。由良と、望月に任す」
短く「「はっ」」と、空気が震える。
勘助は気付かず多少びくりとしていたが、真田の忍びでも名うての二人だ。前田家もしばしは防がれよう。
「旦那、小助も行ってる」
小助は幸村の影武者だ。これで退却の成功率は上がった。
――十勇士がつけば、撤退は叶う。
どれだけ彼らが失われるか、考えたくないところではあるが、それとて武田が崩れればもう意味を持たないこと。
――後は……。
幸村の何か言いたげな顔を見てか、勘助が先に言葉を紡いだ。
「山県殿が討ち死にを。……秋山殿が守っておられましたが信繁様も、もはやその生存は絶望的かと。今かろうじて、二陣を務めました甘利殿が、凌いで参ります」
これで残るは自分と勘助、上杉の睨みにそのまま残された兄と城監視の、小山田だ。戦場でまっとうに残ったのは、後は甘利虎康のみか。
だが、それよりも主君の弟、信繁が亡くなった衝撃は大きい。
幸村も一瞬、言葉につまる場面があった。しかし、家は続き、この撤退の指揮をとるものは別に【いるはず】なのである。
「――して、勝頼殿は?」
「――」
無言。
それが全ての答えだった。
総指揮はとっくに勝頼に移っていたのだ。
そうして、彼の意向としては、つまり「引き下がる気はない」ということだろう。
これが最後の決戦か。
――そこで討ち死にするつもりならよい。
だが、武田の軍師がこの局面まできて言葉をのむ理由があるとすれば……
不穏なものが感ぜられて幸村は口を閉じた。
戦場にあって優秀な智将は、心得ているのだ。
なんとしてでも生き残らねばならない。
お館様の意志を継ぐためには――
「分かった。今、某は聞かずに置こう」
「大丈夫だよ。勝頼さまはうちの連中を使ってお逃げの模様だ」
分身なのだろう。
横を駆けてきた佐助が薄く笑う。
――ああ。
まずは立てなおしだ。
「……今度ばかりは荒れるであろうな」
家臣の諫めを聞かず、総攻撃を仕掛けた大将が生き残り、おそらく三度戦いをと言いだす。対して、同じ直系でも正室の子、信之は幼くもしっかりしたお育ち。文武両道の武田にあって、武に重きを置く勝頼に対して、彼は文もわきまえた摂関家の血統でもある。
まだ幼く、支えが必要とされようが、後継としては申し分がない。
――武田が分裂する。
その事実に、想いを向けるのは後でのことだ。
幸村はただただ畦道を奥へ奥へとかけた。
山に入り、勝頼たちと合流できるよう、次の城を用意する手はずは佐助伝いに十勇士に頼んだ。
あとは、こちらが討って出きらなかったことに勘気をおこされて、こちらを頼らずどこぞに逃れるか。
「まだ不在は漏れておりませぬ。どうなることでしょうな」
≪この先の武田は。あの方無くして――≫
声ならぬ声が聞こえる。
「勘助殿……」
その老軍師の不安は幸村の胸に染みた。
次男として真田は、兄に任せることができる幸村としてはよりお館様の志を遂げられる人物を――その血脈を守り、教えることだけがこの先の生きがいだった。
――誰を選ぶのか、こたびの戦いで自ずと知れた。
知れてしまった。
唯一を選び、唯一を失った今の己にあるのは、ただ一本の道。
だというのに、心は師に向かってまっすぐ走ったあの頃のようにはいかないのだ。
どんよりとした曇り空の下、それでも幸村は足を止めることなく、槍を振るい続けた。
はじめちゃったよ、武田退却。ここから蒼紅 最上攻めまで一気にいきまっせ