あぜ道からやがて藪に入り、奥へ奥へと進むうちに小さな木立の合間、道なき道を行くような旅になった。
喉はとっくに乾きを通りこし、感覚に痛みを変えている。
重い脚を振り切るように、高台に上る。
かろうじて、約束の場所と思われし岩が覗けた。
だが、合流できてもここから目的の砦まで、まだかなりある。
方向感覚もだいぶ危うい。
不安を感じ取ったのだろうか。
「そちらは?」
本来の軍師が、こちらに声を投げかけた。
年もさることながら元来脚の不自由な御仁だが、声はしっかりしている。
「いえ。気配もないようだ。つけた十勇士が無事ならばいずれ知らせてくるでしょう。このまま追っ手がこないと言うこともあるまい」
幸村は、警戒はそのまま、勘助に指示を仰いだ。
あまりの状況に、とっさの指揮を執ったはいいが、ここより先は勘助に任せるべきだ。
年の功もあるが、単純に幸村はこのあたりの地の利がない。
「これ以上待つわけにはいかんな。ここは先に進みましょう」
軍師の判断に幸村は素直に頷いた。
そうしてから誰もいない虚空、「見えない影」に向かって指示を出す。
「才蔵。何かあれば知らせを佐助に」
とたんに揺れる空気。
無言で現れた忍びは長に次ぐ実力の持ち主だった。
目を凝らせば先ほどまで勘助の脚をつとめていた黒い装束、口を覆う特徴的な布が見えただろう。
「いつのまにやら交代を――」
びくり、と。横で山本勘助が、自分を負ぶった忍びの背格好を捉え、目を疑っている。
だが、彼が「これが才蔵ではなかったのか」と疑問を口にするより前、はっきり気配は変わり、
「似てたでしょ?山本の旦那。これでしばらくは凌げる」
声なき声とともに、巻き起こる紫のけぶり。
幸村は(そして恐らく勘助も)衝撃に目を閉じた。
やがて……。
目を開けたときには、勘助は岩におろされ、幸村の前、にぃと笑う忍びが控えていた。
「佐助」
「味方ですら気づかないんなら、たとえ見つかったとしても大丈夫。俺が変われば――」
「佐助」
「はいはい」と軽口の忍びは肩を竦め、再び勘助を背負う。
「ならぬ。万が一見つかろうと、影武者はお前にまかせぬからな」
唇をかむ幸村に、彼の表情がすっと消えた。
「ダメだよ」と教える声も本来とは違い、感情を置くように。
「ここで使わなきゃ俺らの意味がない」
――ああ……
どうしてくれようか。
忍びに頼りなくみられているのか?それとも本来忍びとはこのように悪い方向を前提にとらえる生き物なのか。
見つかったらここに捨て置けと言い出す部下に、幸村の笑みは苦い。
乾いた唇が開きかけ、言葉を無くして再び閉じられる刹那、
「安心せい、忍殿。虎の若子は情でいうてまい。されど用心は必須のこと。さっさと上田へぬけてしまおう」
勘助がくみ取って、先を促してくれた。
そうしなければいつまでも主従の妙な緊張が場を支配しかねなかっただろう。だが今は場をいつまでも膠着させるわけにはいかない。
――もはや、おまえは真田忍びであって、武田の忍び長でもあるのだ……
自分の忍びであればこそに、その戦力はよくよく知っている幸村は、佐助には一度しっかり自分の胸の内をはなしておくべきだと、改めて、思い知らされた。
大方のこと、かの忍びは理解しているのだろうが――。
それでも、お館様の意志を繋ぐために佐助にいろいろ働いてもらう局面も増える。
沈黙の隙間、他の兵は再び動く準備にかかり、幸村も無言で応ずる。
「待ち合わせに来なかったな」
足を踏み出す前に、勘助が重々しく確認する様子がやけに印象に残った。
ようやく裏を取れた主筋の生存と、その後の合流打診――
結論からいえば、勝頼は来なかった。
幸村は、その真意がどこにあるのか、測りかねていた。
しかし、来ないにかかわらず忍びの報告をきくかぎり、勝頼とて武田を継ぐものとして意志はある様子。
なればこそ、自分らを遠ざける現状は、どう見てもよくない兆候にしか思われないのだ。
――ともすれば、最悪の場合……
「いや」
一瞬浮かんだ考えを打ち消すように声を出す。
「どうしたの?旦那」
――その手で毒を扱ってもらう自体もあり得るなどとは……。
言えようはずもない。
幸村は頭を振った。
そもそも、あまりに不遜な考えだ。
主家に対してなんたることを、と思う。
だが、その反面強く思う自分がいる。
苦渋の選択を強いられたとき、自分は佐助を使うだろうこと。それより前に、佐助がかぎつけて自分を代弁するようにことを起こしてしまう可能性を。
――だからこそ……佐助とは話をしなければ。
先ほどのように庇われるようではまだ足りないが、思いを読みとられ、先走られても困る。
主らしく、決断の重さは自分で背負いたい。
それはもしかしたら、はじめて幸村が武将に――政治的に武将になった瞬間であったかもしれない。
幸村は、おそらく自分は「真田であること」を捨てるであろう「事実」を思い描いた。お館様の意志を残すためならば・……と、気づいてしまった。
真田幸村は真田家のものでありながら、真田を離れねばならないときがくる。あるいはこの先、かの方の意志から背くようならば、武田の家臣であっても、武田をも離れることとてあるだろう。
――不遜か、否か。今は分からぬ。
ただ出来るだけそうならずすむように、尽くすだけだ。
せめて武田の足下を固めながら、ついてきたほかの兵――少ないながら彼らを上手く指揮し、政治的にもまた動かす術を得なければならない。
――すべきことは多い。
幸い、戦場に近い今ならば活躍もしやすいだろう。
「まずはここを抜ける。勘助殿、指示を。夜のうちに抜けられよう。……佐助は先に用意を」
「六朗がもう上田に入っている。準備は整った」
「わかっておる。だがお前も今一度」
念には念を、と押す真意を、幸村は佐助に教わった方法で伝えた。
これをと持たせる文書に乗じて、手の甲にお前が見よと書きつける。
行く末をそうときめたからには、自分の信頼する真田忍には勧告を促す義務がある。幸村はそう考えた。
里に帰るもよし、このままつくもよし。
武田―真田という枠とて、幸村についていたらはずれる可能性とて見ねばならない。
佐助に託すは、信頼であり、佐助の選択を奪うことでもあるが……
「我がままをきいてくれるか?」
と、訪ねる己に、少し目を見開いた彼もすぐに頷いていたから。
これで、もう大丈夫。
再び勘助にかわり先導を努める幸村の足に、迷いはもうなかった。
覚悟は出来た。
後は、出方を見るのみ。
ひとまず 幸村側の意識。次から実情が動く話。佐助だけは
身内扱いな気がしてます。