第一陣の使者として、上田を発ってから早五日。
降伏希望に対して、あちらの条件が提示されるのがその役目。
帰りには首はつながっていないかも知れないが、それもまた運命、と快川紹喜は笑んだ。
甲斐に招かれて、何年がたっただろう。
若い信玄を教え、寺を預けられ、その子を見て……また真田の若者たちとも懇意にさせてもらった。
思い残すことはない――そういえば嘘になるかしれない。残念なことや止めかねたことも事実あった。
それでも、仏門に帰す身としてはおおむね満足な結末だ。
「して、虎の若子は?」
老人には酷だろうと言われながらも平然と歩く足を見て、あきれたような顔をする従者にいえば、見事にその表情が曇った。
「嫌みか?」といいたいのだろう。姿を現しているこの彼はおそらく答えようにも知らされていない下っ端なのだ。
――このあたりの配慮は昌幸殿がたけておったが。
相変わらずなのかと、安心する。
ついついほっほっと声が漏れた。
それがまた下の彼を苦しめていることもわかっているが、うれしさから自然と出るものなのでどうしようもない。
「――すまぬのう。武田の真の戦力がおちなんだことが喜ばしいのじゃ」
真田は武田の戦力の要を担っている。
それは武力の問題ではなく、半分以上その忍び隊あってのものだった。先代もしかり、信幸もしかり。
「虎の若子は、素直さゆえ向かぬやと思われたこともったが、あまりのまっとうさに忍びの方が彼を好いたようであらせられる。――なあ?影殿」
今度は横の「従者」ではなく、空へ、ほんの少し聞き取れる程度にもらしてみる。
すると「あんまり公然と話しかけられても困る」と、横から声があった。
やはり睨んだとおり、本当の護衛――十勇士はあえて気配を消して別についてきているのである。
すまないと謝罪して、歩く足を早める。
「これしきで遅れをとる快川ではないぞ」
「ふう」と。
聞こえぬ忍びのため息が聞こえたような気がした。
快川が引き受けた第一の使者は、予定どおり参道を越し、信長後の混乱を引きずった尾張を回って、駿府に入った。
* * * *
指定された庵につくと、会見に出てくるのはあちらの本多正信公であろうと聞かされた。一時は出奔していたというが、騒ぎに乗じて戻ったに違いない。
何でも松永のもとにいたらしい。三河武士は愚直というが弾正に取り立てられる時点で、それなり以上の知恵者には違いなかった。
まして徳川家康は三方が原以降、狸と呼ばれて久しい。
――真田をあちらに誘い込んだのは石川と聞く。石川数正公なれば楽であったものが……。
思うも、かえようがない。あちらもあちらで、何か異変が起きたに違いないと切り替える。
やがて、仲介の者が――予想通り真田の下の者もいた――彼を連れたって現れる。
一言、信幸をあちら側に招いたのもこの男だというような趣旨を述べ、一献どうかと快川を茶に誘った。
「戴きましょう」
「うむ」
重い声がある。
一見するといかにも頑固そうな面。初老の男は、快活そうに歯を見せ、
「挨拶がなっておらんかったな。お待たせいたした」
そう声をかけてきた。
すり足で進み出るこちらに対して、座す前の一歩は大きく、力強い。
「拙僧は恵林寺から遣わされた者。名を快川紹喜。機山の号を受けております。こちらに説法を聞き、心を太平にしていくよし、任せんと考える志の高きお人があるときき、参った次第……お間違えなければよいのじゃが……」
心ならずと太平に――天下を手にしていくだろうひとがいるだろう。そのために武田に話をさせる機会くらいつくってやってもよいという、見る目のある人がいるときいたがどうなのか?
裏を読めばきちんとわかる程度の言葉で、笑んでみせる。相手の反応をみるためだが、もともとが笑って見えるたちゆえ、無理をせずにすむのはありがたい。
快川は交渉につく僧が武将のように笑ってみせるのは好きではなかった。 穏やかに心底ほほえめることこそが、僧の道と信じ、だからこそ嘘のない笑みを持つ信玄にひかれたのである。
ところで、相手は相手で、なかなか素直な笑顔を持っていた。
にかっと口を開くと、闊達な調子で
「おうおう、其れは俺じゃ。早う、ありがたきお話をきかせてもらおうぞ」
そう告げる。
すぐさま好感をもった。こちらを理解したうえで、自然に笑んでいる。
少なくとも個人的に彼を嫌うことは難しいかもしれない。そんな感想がよぎった。
――だが、「ありがたきお話」でなければ聞かぬということよ。すでに交渉は始まっている。
「感謝に値すればよいのじゃが……・一つ、ただただひざまづいて、御仏に祈りを捧げるが、道にありますれば」
≪ただ跪く、へりくだるが筋だろうぞ。さりとて降伏を同意にはこぎつけなければならない。それに値するかは、分からない。≫
このくらいの応酬、なんのことはない。ここから本題に入って初めて、今後が決まるのだ。
快川は差し出されたお茶を素直に受け取り、ほどよい緊張感に舌鼓を打った。横の和菓子よりも、そこはかとないこの生死を漂わせる空気の方になれた自分は僧として失格なのだろうか。
――それもまた人生。
間に入る真田家の家臣がなかなか本題に入らない二人を複雑な面もちで見るも、快川は最初で最後の交渉役をたのしんでいた。
* * * * *
説法のついでの世間話として始めた談合は、静かに進む。
本来の目的はその条件を訪ねることだが、あたかも関係ない話にまぜた茶話としてすすめるしかない。正式でない訪問とはそういうことだ。
「それでは、武田は信之公が継ぐと」
快川はうなずき、「その証とともに、三河殿に誓いをたてたい」という趣旨の言葉を述べた。
そしてどんな無茶な答えがかえっても、(あちらが飲み込み信じてくれるのであれば)受け入れられる限り受け入れる。
突然の切り捨てがなさそうだということは、この段階で確信していた。
ただ、昨日まで本気で戦いあっていた敵であればこそ、まだ信じられぬのだろう。
重ねて、その条件のよしを伺う。
武田は降伏の証に主を差し出す覚悟であった。それというのも、幼き頃に、魔王の元、今川の元に人質として転々と回った家康を習ってのことだ。まず悪いいいたてではないというのが勘助の見方。
ところが、
「こちらも北に上杉、西に豊臣、瀬戸内と四国も組したというし、伊達のこせがれもまだまだうるさい。殿は人手がたりんとお嘆きじゃ」
「人手か」
この場合は戦力のことと読んで違いなかった。
同時に、ここで、誰を――何を出せるかが、見られている。
――信之様では取引材料にはならんということか。
もっともかといってひける話ではない。
今回は同意が前提。こちらの希望など二の次なのだから。
そうして、武田の戦力を確認するが、あれだけの大敗の後である。まず敗因ともなった騎馬隊を送るに無理があるとわかる。その上でまだある戦力といえば……
「真田の忍隊を」
「それならば、役に立ちそうだな」
相手はふんっと笑い、残りの茶を飲み干す。
話を切り上げる準備を見せながら、それでも直接是と言わぬ様子。示される事実は一つ、それでは足りぬということ。
――手足だけでは確かに機能しまいか。されば頭ごと差し出せば、あるいは……
それこそが相手の望みか。
痛いところをつかれたと思う。が、同時に、それはかのものを生かすことになるかもしれんと、予感もある。
――どのみち答えは是。否やは許されぬ。
「では、近いうち、正式な使者として真田幸村を駿府に遣わしましょう」
せめて、すぐにと言わぬが使者の意地。
これくらいは通させていただきたいと、快川は再び微笑む。
山本はもちろん、虎の若子がいて初めてまとまっている部分もある武田ではあるが、この意地くらいは認める三河武士だろう。
「虎の若子を呼ぶのであれば、絵師を呼び寄せまいか。さぞや素晴らしき屏風絵になろう。すぐ呼べば間に合いますかな」
急がねばついてしまおう、と本多は笑う。
屏風絵と徳川といえば、恐らくは信長なき後、うしろだてを探していたかの有名な狩野永徳ということになる。
それならば、時間をとる理由はいくらでも浮かんだ。のらりくらりと交わすことでどうなるかはわからないがこれくらいで逆上する使者でもないだろうことは、すでに計れている。
逆手にとって、
「後々に語りつがるる衣装を着せて出さねばなりませぬな」
時間がかかるのはやむを得ない。
暗に答えれば、相手はむむっと一瞬こちらをみやってきた。
それをほほほと笑い飛ばし、様子を見るように――念を押す。
「だが、虎の若子は速く駆けること風の如し。そうお待たせは致しますまい」
「うむ」
――決まりじゃな。
どこから斬られるかわからぬ状況は変わらない。
だが、今度こそ御仏みほとけに捧げた身に生死が不安になる必要はなくなった。
ただ、条件を少し下げられたといえ、思いも寄らぬものを欲されたことは口惜しい。
――正式な使者は幸村殿。
そして、人質となるも、まさかのあの若武者である。
それでも、提案を受け入れられたことは大きい。
武田が守られるのが一同の意ならば、この会見は成功。間違えなく、意義あるものだ。
「すまんの」
――それでも……
快川は、≪彼ら≫にわびた。
ずっとついてきて、裏で彼を見守っていた、虎の手下。忍びたちに、であった。
彼らは数日後、幸村につき従い、三河に入る。
主の会見というのに、我慢を強いられ、守りになれぬ己をくやしむのであろう。そのことだけが、年老いた僧に一抹の後悔を与えた。
そういった意味で、彼もまた忍びを愛する武田のもののふであったのやもしれなかった。
もうもぶばっか…… 本日中にできそうなら幸村もアップ。これで大方かたがつきます