「兄者」
浅井長政がその呼び名を使って、しかも自ら話しかけてきたことは初めてだった。前世ではいくらでもあったかもしれない。だが、ここでの彼の関係は極めて微妙だ。
妹の――想い人、といってもいいだろうか。
それはそれで気に喰わない気がする信長である。
「………」
答える言葉が見つからなくて、黙っていると、
「何故あの者がいると、知って放置するのだ」
それは悪である、せめてわたしに教えてほしかったと。
憤った声で言われ、ますます困惑する。
そもそもあの者とはだれのことを指すのか?
――何故我に言う……
両方とも理解しかねる。
……とはいえ、頭の回転は人以上にいい信長であるから、長政が敢えて言ってくることの意味もうすうす感づいてはいた。
「お市か……」
「っ」
小さく呟いただけで、この初々しい反応はなんなんだろうか。
かつての妻女なのだ。
――そうそう変わるまい……
さっさと自分の女としてしまえばいい。
やっとのことでくっついた帰蝶と自分の例を棚に上げて、思う若い信長(脳内年齢もある意味で若いのかもしれない信長)
だが、妹の恋人にもなれていない彼が敢えて来るということは、大事なのだろう。
「――あれ(市)に懸想するものは多かったからな……」
取持てと言われても困るが、誰か面倒なのが出てきたのだろうか。それはそれで兄として不安もある。
この世に生まれてから、どうにもお市を放っておいてはいけない気がするのは、かつてへの償いか、単なる元の性質か。他の妹や弟たちが転生しなかったことを思うと、彼女だけとて家族であるのは幸運なことかもしれない――そう思うせいか。
一瞬、思考回路が飛びかけたが、目の前で「そっ、それだけなら別に――」とどもる長政を見て、意識を戻した。
そのまま、特に考えなしに、
「ああ、現世(ここ)ではうぬとあれとは、他人であったか」
「っ――」
「?」
言葉を選ばなすぎたのだろうか?
――いちいちダメージを与える気はないのだが、何故うめく、長政よ。
首を傾げたくなる衝動をこらえる。
そうして、顎で、話の続きを促した。
昼休みは短いのだ。
早く弁当にありつきたい。
長政は、言いづらそうにではあるがじーっと見つめるほどに、視線にたえられんと叫ばんばかりに、
「松永弾正が、一体なぜ俺に指図をする!あのものは悪だ、またも悪に違いない」
「………ああ」
「ああ、じゃない!兄者は大丈夫なのですか。市(あれ)にちょっかいを出されて」
――からかっているだけだろう。
数週間前は一瞬、ひやっとして長政に「お市を見張るように」なんて、行ってしまったが、今となってはあれも彼なりのジョークだと分かる。
もちろん半分本気なので、気を抜けば喰われるだろうが……
――お市の視線には入らないだろう。
フェミニストであり、間違えなく今の男ぶりであれば、下の学年にいる伊達や、同年の上杉を超すかもしれないが……
「――あれで、お市は……」
言いかけてやめる。
お前のことを好いている、とは言いたくない兄の心がある。
期待と不安とでこちらを見つめ返す、長政の整ったと言えなくもない顔に、
「趣味が多少変わっている」
と、もっともなことを言ってやった。
「だが――今のあれは弱く……」
護れと言ったのは兄者ではないか。
そんな文句がたれてきそうな表情だ。
信長はため息をこらえて、見張れとはいっていないと、長政に答える。
「俺がいる限り、手はださせない」
「――っ」
その言葉が、今度は長政を別の方向の嫉妬にからせてるとも気づかずに。
はたして正しいのは、天然のシスコンか、と呟いた長政の方か。
鈍感すぎるにもほどがあると、呆れて零した信長の方か。
妹の恋人(まだ候補)も、
恋人(まだ候補)の兄も、
戦国の世の立場をなくしたところで、扱いが難しく、永遠に打ち解けないものに違いはなかった。
拍手で信長周辺がいいと言ってくださった方が何人かいて偉く感動したので遅ればせUP。
お市大人気、の回。鍵のちょっと後のおはなし。天然だらけで 微妙ぼけ対決。だとおもうんだ、あそこの三人の現世版は。