消える篝火 燃ゆる現(SIDE小十郎)   >幸村・小十郎:だてもの/転学の前世(正史)版

「幸村様、御髪が……」


しゅるりと無造作にほどかれた赤い糸は、細くくたびれていた。
あの頃から同じものを使っているのだろう。
取り換えた記憶はなく……幸村が新しいものを求めた覚えもない。
小十郎が、諌めるでもなく呟いたのは不思議に思ってのことだった。


「いい。其方に纏めて欲しいと思ってしたことだ」


してくれるか?
幸村は静かに問うた。
有無を言わさずにやらせてもいい。そういう立場に自分はいるはずだ。
なのに、この人は必ず意見を聞く。
ただ命令することはしない。


――猿にはあれでいてちゃんと命令しているように思うのだが……


同じように扱いたくないのか、あるいは全てを委ねてしまうのは何か裏があってのことか。
焦れるでもなく、こちらの答えを待って、ふりかえる幸村に、小十郎は薄く吐息を漏らす。
催促するその目に、諦めて、返事をした。


「……はい」


考えたところで、もう意味はない。
この平和な屋敷にいつまでいられるかは分からない。
だが、居る以上、自分はNOとは言えない立場にあるのだ。
主人――名目上のこの人ではなく、本来の主人が残した人を守るためには、いささかのことにとて逆えない。
そっと背中に回り、差し出されるままの襟首から髪を掬う。


「失礼します」


一声断って、梳く。色素の薄い、細い髪は、あれだけの炎にさらされても強くしなやかだ。ただ、やはりたまに下の方に引っかかりを感じた。


切りそろえるつもりはないのだろうか。


戦いの合間に伸びた髪は、戦いが終わってからも切られることはなくそのままにされている。
手を滑り落ちる髪の感触には慣れているはずだ。
梳くだけならば、何度も、自分の主人にしてきた。
紐は、髪になくとも、目を覆い隠す龍の紐を、何度も結びつけた。
動作だけでいうならば慣れ切っているはずだ。


――ああ……なのに、どうして。
どうしてこんなに違うのだろうか。
かつての主人のそれは、黒く、太めでさらりと流れて、いたむことをしらぬ絹のようだった。あの龍の紐は、熱を持たない固い鎖だ。


だが、この人のは……


「どうかしたか?」


背を向け、首を預けたまま、穏やかにこちらを気遣う声色は……あくまで温かい。切れかけている紐も、紅い炎というよりも夜の燈籠のように、ほのかな熱に似た緋色。


「俺の、この首ならば今すぐに落とせるだろう」


憎しみが消えたわけではない。
それもありだと何度も思った。
だが――


「この首を落として、あの世に持ち帰るもよし。そのつもりで其方は此処におる。……理解しているつもりだ」


どうやら、この思考は自分の思うがままにいかぬようだ。
幸村は見せつけるように、対照的な紅い糸を差し出して、せせら笑うでもなく、穏やかに言うのだ。


「すまないな」


と――。


そのたび背筋が凍りつくような思いがする。


――この人は見抜いている……


俺を、見抜いているのだ。
つうと背を伝う汗が冷たいのはそのせいか。
それとも、それ以外の理由で畏怖を感じているのか。
相手の表情が見えない分、かえって嘘が重くなるような気がして、小十郎はただ真実を返した。


「いいえ。俺は貴方に命を救われた――俺などよりもずっと大切なあの方の唯一残した……」


伊達政宗の娘という、
一番扱いづらいものを、彼は引き取ってくれている。
それへの感謝。
幸村が今のように穏やかになってしまう前には考えられなかったことだ。

――あの時の【真田幸村】ならば、敬意を払って引き取ったのだろうか……

政宗が生きていたときの彼は彼で、礼儀を重んじる武将ではあった。

だが、
……と小十郎は思う。
たぎる闘志の代わりに、平穏のうちに底知れぬ暗さを抱く今の幸村だからこそ、かのひとの娘の「父子」になれるのだろう、と。

この男は――この、小十郎の今の主は、彼の一番大事なものを、限りなくかのひとの近い距離感で慈しんでくれている。
紛うことなく、父として。
そこに偽りはなく……偽善も、同情もないことは誰より小十郎が知っている。


「かといって、自分を……俺のような男をこんなにそばに置くなどと酔狂なことをしなくてもよかったでしょうに」


今ここでくびり殺せることを認めて、そう聞けば、この男は「酔狂か?」と真面目に返した。


「俺は片倉殿に信頼を寄せている。某にとって佐助がそうであるように、政宗殿が背を預けられたのだ。此処に娘御(あれ)が居る以上、其方は誰より安全な男であろう」


そこにも、真実の色しかない。
何故そこまで全面的にこちらを頼れるのか、小十郎には理解ができかねた。
狂うでもなく、怒るでもなく、幸村はただただ笑う。
己を嗤うのではなく、平和だなと少し遠くへ返すのだ。
そこに誰かいるかのように。


「それより……もういいか?そろそろ結んでほしいのだが」


大分傷んだ紐を渡して、振り向けば今度こそ想像ではなく、真実幸村の微苦笑が見て取れた。
ただ穏やかに、まるで死に際のような表情に、受けとった手がびくりと震えた。


「この紐でいいのですか。だいぶ草臥れてしまったようで……」


手持無沙汰というか、どうしていいか急に分からなくなり、聞いてみれば、「ああ」と、ようやく紐の状態に気づいたかの表情で幸村が答える。


「それだからいいのだ」


 ――ああ。


 小十郎の胸にすとんと落ちたものがあった。
 他にもいくつも紐があることを知っている。紅の糸は佐助や他の十勇士たちが絶やさぬようにいくつも持ち寄ってくれている彼の日用品なのだ。
 いつだって彼は新しい紐も手にすることができる。
 だが、これは、おそらくその中で唯一古く残っていくものなのだろう。
 そう、あのときの血の跡は消えず――多少の錆色としてこの赤に染み込んでいた。

 ――あの方を射抜いた槍と同様、この紐も彼のひとの血を啜った。
 気づいたはいいが、小十郎にはどうしていいのかもはや答えるすべはない。
 縊り殺せるのならばとっくにしている。


「頼む」


 一歩間違えれば震えそうになる声を堪えて、


「はい――」


 その首にふれぬように、橙色の紐をあてがった。
 彼の髪にあって、その夕焼けの色は、妙に似合っているようで……決してまざることがなく――彼岸と此岸の別離を意図するようにも思える。
 慣れた手つきでくくりつけると、幸村は満足そうに礼を云った。

 ふと、その顔を覗いてしまい、小十郎は絶句した。

 ――懐かしんでいるのか。恨んでいるのか。それとも……

 燃えていた紅蓮の炎はやがて篝火のように消えてしまう。
 平和の中で隠遁とした生活に身を落としたがっているように見える幸村が哀れだった。
 殺す殺さぬ以前に、この方はすでに一度消えている。

 ――人質がおらずとも、俺は……

 事実かの姫が此処を出ていたとしたらどうか、小十郎もはっきりとは答えられない。
 ただ、眼が熱く……堪えなければ何かがこぼれおちてしまいそうだった。
 かれの主が散った日、この主もまた、六文銭を置いてきたのかもしれない。彼岸にも此岸にも動けぬような何処かへ。

佐助は死んでませんVer。少し内容も違います。
政宗を殺した幸村。幸村が生かして手元におくようかけあってくれた政宗の娘。彼女を生かすために幸村に仕える小十郎。
更新開始予定の、話の前提なので、ちょい前のと被るのですが掲載にふみきりました。さーて、うすらざむい幸村→通常へ 話を始めます。