「入れ」
許可を得て、小十郎は緊張した面持ちを上げた。
わずかにずれて、障子を開けば、数か月前とはまるで変わってしまった真田幸村の姿がある。
ぎり、と。
唇をかみしめるのは雪辱によってのことではない。
もともとは覇気に溢れていた、かの人の好敵手が、こうも冴えない風体(というといいすぎだろうが、あまりに違いすぎる)になっているのを見るに堪えなかったのだ。
戦が終わったからとはいえ、武田の赤を捨て……藍色――まるで自分の主のような、かつてのあのひとのような色合いの渋染を纏う幸村は不自然に思えてならない。
小十郎はたまらなくなって眼をそらした。
これ以上見ては不敬に当たると気づいたせいでもある。
一礼し、そのまま視線を手元に、彼の許しを待つ。
横に添え置いた刀は、幸村の手のとれるところまで推し進め、自分に敵意が欠片もないことを示した。
だが、幸村は無頓着にその刀を戻し、
「相変わらず片倉殿は武将としてしゃんとしておられる」
苦笑するような声色で「顔をあげるよう」告げる。
だが、いわれてもなお、小十郎は表を上げない。
――集中しろ、粗相のないように……
あまりの緊張で褒められたことにすら気付かなかったのかもしれない。
無言のまま、数刻がすぎようとしていた。
すると……
くしゅん。
小さいくしゃみが小十郎のひざ元から響いた。
びくりと、さすがの小十郎もそちらを見やれる。
すると、膝に寄り添っていた小さい影が身じろぎしていた。
「大丈夫だ」
だから、と、告げた幸村に、小十郎ははっと表情を変える。
すると、相手――新しい主は、自嘲するように「分かっておる」と、言い放った。
「母君に似ておられるのか?」
「愛姫様に似て美人と謳われておりますが、実際は……」
「なるほど。政宗殿に似て凛々しい顔立ちをしている」
「……」
……と。
幼い少女がむくりと起きて、とろんとした瞳を二人交互に向けた。
遺された伊達の姫君――今は便宜上、小十郎の娘となっている姫君だ。名を、五六八、改め菖蒲という。
目に入れても痛くないほどに可愛がりながらも北は畠や最上の目から隠すべく存在を明らかにされていなかった姫だ。
仮初の名は前もって小十郎が山本勘助に打診し、幸村より授かった。
その姫が、今日より小十郎とともにこの九度山に逗留する。
意味は明らかだ。
――やがて、彼が娶ってしまえばいい――
そんな勘助や周囲の、今の後継ぎを残す前に消えぬとも思われる幸村への気遣いなのだが、当人は分かっているのだろうか。
少々あやしいものがある。
何せ幸村といえば、正室を世継なく亡くした後家督をどこに譲ろうか勘助に相談に言ったほどなのだ。(その結果、真っ向から、後妻を世話しようとして追い払われた軍師殿のおかげで、今があるわけだが)
――何にせよ、この姫が無事お育ちになるのならばこの小十郎、悔いはない。
亡くした主の唯一の願いは、この姫を真田にやること。
敵に塩ならぬ宝を送る気持ちとて、小十郎は何となく理解できた。
それほどに、あの龍は、虎の和子を、認めてはいたのだ。
――だから、俺はここにいる。
最期の願いを叶えるべく奔走して早数か月、そのためだけに九度山を訪れたのだ。
ところがどうだろうか。
幸村は、あのときの――彼の主が認めた虎ではなかった。
彼の知る虎の若子は、薄い唇を皮肉げに開けない。睫の長さが目立つほどに俯いたままでいない。形式上娘、であろうが、女人とみれば破廉恥と叫ぶ……そのはずなのに、なぜ黙ったまま、指示を出さぬのか。
徐々に不安になってくる小十郎に対し、当人たち――姫君も含めて、きわめてマイペースなものである。
齢6歳の少女は寝ぼけ眼をこすり、甘えるようにすり寄っている。
片やそれを眺めて、何やら唱えていた。
(恐らくは自分の忍びに指示を出しているのだ、と小十郎は納得することにしたが、今の幸村は何を考えているのか推し量れないところがあり、それがまた不安を煽った)
やがて、簡潔に、
「その件、承ろう。人質というにも可笑しな間柄、伊達の拠点が此方に――家康公の御膝元に出来るまで、ここを使えばよい。姫の世話を務めながら……。
もともと同じ徳川の軍勢。客分として逗留するのであれば不自由もあるまい」
なに、毎度奥州からはるばる往復するよりは近かろう。
そんなふうに。幸村は、小十郎に「自分を主と無理にすることはない」と遠まわしなやり方ではあるが認めてくれた。
自分に託された政宗の願いは受理されただけでも十分だと思う小十郎としては、ありがたいというよりおっかなびっくりだ。
到底信じられない。
――戦人ではない真田幸村が、思いのほか頭が回るのか。それとも――
自棄になっているのか。
つぶやきかけた言葉になぜか心配の色が混ざりつつあることを、小十郎は早くも感じていた。
もちろん第二の人質の意味もこめて――天下分け目の戦いが終わり、その上一番上の竜を失った奥州が彼ら(もと武田)の領地に組み込まれないようにするべく、此処に向かったことももうひとつの目的として――小十郎が此処にあることも事実だ。
だから、奥州は成実に――最上の制御はかの人の息子に任せ、他でもない竜の右目たる自分が直に此処に来たのだ。
だがこの扱いの良さは何だろう。
かえって君が悪いほど。それでいて、幸村の言葉に嘘は感じられない。
ただただ――彼の声が空虚なだけ。
でもそれが気にかかる。
――猿がいたらきけるんだが……
優秀な彼の忍びは、おそらく自分たち、奥州の動向を監視に行っているか、あるいはこの報告に徳川に行っているのだろう。
ならば、後は覚悟を決めるだけ。
それから、幸村以外も仇敵であっても無碍に扱わないような、そんな状況に自分を置くために最善を尽くすほかない。
――姫を本気で守るためにも。
それしかないと、小十郎は意気込んでいた。
だから、気づかない。
幸村がかすかに――ここ数か月見せなかった顔を見せて微笑んでいたことも。
主の忘れ形見がその笑みに、ほっこりとつられて顔をくしゃくしゃにさせたことも。
だから気付かない。
ほだされるな、主とするなと言いながらも、もうほとんど彼(やこの扱いの良さ)を信頼し、姫と同じように危なっかしく見える微笑みを不安な気持ちで眺めている自分がいることに……。小十郎は気付かなかった。