隠れ野  >慶次・濃姫・松永
【SIDE 慶次】

 本能寺の付近で彼女を見つけたのは、偶然だった。
 ただ、放っておくことなど出来ない。着物は煤けて、かろうじて火を逃れた様子を語っているが、腕から流れる朱と、血の気の引いた顔が予断を許さぬ状況を語る。
 もう一歩も動けないのだろう。あっているはずの目がうつろに見えて、慶次はあわてて駆け寄った。

「大丈夫かい」

 誰に通りがかられてもおかしく思われないよう、その腕に封じ込めてしまえば、驚くほど細い。肉感的な印象の強い魔王の奥方はここにはいない。

「前田の……」

「風来坊だ。それでいいだろ」

 前田に、魔王に連なる軍勢として見られているわけではないのだろうが、心のどこかに抵抗があって、訂正する。
 魔王、信長は、人を苦しめすぎた。利家からすればいい上司であっても、慶次には理解できない思考も多く……それは今と手変わらないのだ。
それでも――

 ――利が決めた道だ。

 残してきた前田の家を思うと、これ以上強く何かを言う気にはなれない。
 信長の後――武田が攻めてくる。そのために、彼らは今、死を覚悟して軍勢をくいとめんと、長篠にいる。託されたのは自分の命。前田の家とは言われず、慶次として生きよと言われたのだ。

 ――だが、この人を放っておいちゃいけない。

 弱いものだから死ねというのなら、前田慶次である理由は失われる。救いたいものを救う、それが歌舞伎もの。誰に断るでもなく――

「姫さん」

 自然と呼びかけていた。
 慶次があったときには既に嫁いでいたから彼女は「姫」ではないのだけれど。武器も持たず、倒れる女はまるで少女のように見えて、ついつい口をついてでた。
 もともと恩もないが、彼女自身に恨みもない。どこかで、彼女を織田に連なるものと言う認識自体欠いている慶次である。子があれば違っただろうが、彼女には子がないし、それでいて蘭丸をみるときなどは並の母親よりも暖かくあった。そんなときは、彼女をまつと似ていると思う(実際はまつが濃の元に花嫁修業をしたらしいが)

「かずさ……様が……」

「喋んな。今手当してやるから」

「も……」

「よくない!もういいなんて絶対言うな。アンタの為とは言わないよ。でもな――」

 まつも利も魔王のことをおもんばかって勝ちも見えぬ戦いを挑んでんだ。
 口走ろうとしてこらえる。病人相手だ。というか、この女がどこまで自体を把握しているかしれない。わかっていれば、聡い彼女のこと。黙ってくれるだろうが、もしも魔王が、彼女の最愛の人がなくなったとしらないのなら……
 ぎゅっと結んだ唇よりも、握りしめた拳の方がやるせなかった。
 その動き一つ、隠すつもりで接するべきだというに、頭が回っていないらしい。切迫した状況の中、彼女は小さく手身じろぎし、動かぬ腕で慶次の手を包んだ。

「わかって……」

「……ええ」

 わかってるんだな?
 問いかけは口に出させず、濃姫は俯き、だがそれが限界だったのだろう。ぱたりと目を閉じた。預かった体重を支え、慶次は何とか場所を後にする。
かろうじて残ったらしい織田の忍びに前田への伝達を頼み、残党狩りの情報を得て、山道を移動する。
 状況を知らず逃げてきた濃姫とは違い、大方の情勢は見えている。下ることは危険がすぎた。かといって、今能登・加賀につれかえっても敗戦すれば命が危うい。彼女を匿う場所を探すほかない。

*      *      *      *
 熱を出した彼女を山寺に寝かし、火の番をし、一晩を過ごした。
 朝方に少しだけ眠り、移動する。そろそろ合戦前の会議が開かれる頃だろうか。信長を討ったのは誰か。謎はこの際おくとして、利が心配だった。まつは、逃されるだろう。実子がいるという理由もある。そうでなくとも利は一人で行くだろう予感が、慶次にはある。
 出かけに、「会えてよかった」と行った利を、慶次は茶化せなかった。「最後に」といわなかっただけに、なにも否定できず、ただ「死ぬな」と言った。利は頷かなかった。

 森林の合間に太陽の光が指しこみ、風が笹を揺らす。冷たい水で傷を冷やし、汗の浮く額を吹いてやると、濃は薄く笑った。
 寺は信長がやきはらった大きな宗派に連なったものらしく、なんというか無人であった。かろうじて残された茶器で、そばを流れる川から水を拾い、米櫃に残された粟を煮る。放浪中身につけた山菜の知識が役に立った。中に加えて、灰汁を救えば軽い粥のようなものが出来あがる。一掬いして、味を見てから、縁側にでてきた彼女にもよそう。

「ありがとう」

 感謝の言葉なんて述べないでくれ。
 これからもっとつらい事実をいわねばならないことを考えている慶次に、濃は、「わかっているから」と告げた。

「なにがだい?」

「あの方がいないということ。まつも……利家も大変でしょうに」

 こんな時分、世話になるわけにはいかない。
 濃姫は行き場のない己を知っているのだ。

「蘭丸は私を庇って……。光秀を頼ろうと思ったのだけれど、従姉妹とはいえ、お家を変えた身。魔王の嫁など邪魔でしかない」

「そんなこと」

「ある。――誰がことをおこしたにせよ、今は武田とのことが先。戦力にもならない女など」

 ぎりと、歯をかみしめる音がした。
 普段そのようなことはしない人だ。
 ――ったくどうしてどいつもこいつも戦場にたちたがるのか。

「今回はまつ姉ちゃんもでない……この意味分かるだろう」

「……ええ」

「だからって、アンタがでてもどうしようもないんだ。死なせたら2人に申し訳がたたない。そのために俺がいるんだってことにしてもいい。――お家のためではなく、女のためにならば、弧軍奮闘も悪くないかなってね」

「……え?」

「逃してやる。必ず」

「でも」

「だから死のうなんて思うな」

一言。反論は許さない。笑いとばして、何とかここを抜け出す方が先だ。

「さて、そろそろ出るか。用意を」

「ええ」

 暗い山道は隠れやすいようで、こちらにも危険がありすぎる。動くのならばひっそりと昼間に。今は浅井・朝倉の残党も収まり、収拾のつかぬ織田の残党も何とか家康・利家・柴田のもとに戻っている頃だ。武田との合戦前に物取りは出ても、無駄な所領争いの軍は出向くまい。
 腰を上げて、彼女の手をつかむ。
 最愛の人は、殺されたけれど、彼女は魔王に逃された。
 そのことだけが、何故か救いに思えた。

*      *      *      *
 峠を下り、野に出るか、反対に山脈をぎりぎり沿いに行くべきか。迷う山間の道で、【此処にいてはならない人間】と出くわした。

「――松永……」

 濃姫が後ろで息を飲む。彼女をかばう体制を取りながらも、隠すことすら忘れ、慶次は目を見開いた。

「何でお前がここにいるんだ」

 絶句が悲鳴に変わるまでに数秒と持たなかった。
 松永は、織田の勢力に数えられていた武将だ。何度も裏切りかけ、信用も信頼も魔王自体持っていなかっただろうがどうしてか手放さなかった勢力。どんな形であれ、彼は織田側に【いなければならなかった】。それを信じた他の者があればこそ――

「利が何のために、残ったと思ってる。家康が、柴田のおっさんが、佐々が何故なんのために今日――そんなときにあんたってやつはっ……」

「悪いかね。卿には関係のないことだ。だから此方側へ抜けてきたのであろう?」

 問いかける彼に完全な否定をすることも叶わず――今ならば、利家がまつが、何故自分を逃すかわかるから……前田家を滅ぼさんためにも、嫡男を守るためにも自分を遠ざけたとわかるから、なにもいえなくて、黙る。ただ黙りこむ。

「物言わぬ者を歌舞くとは捕えられんな。ここを通してもらおう」

「戻る気はないのか」

「戻る?どこへだね。人は自らにしか属さぬが本来の在り方。ただ思うがままにあるのみ」

「だからもういいっていうのか」

「茶器を預け、戻されるまでの間、また魔王自体の思考に興じただけ。なれば誰に何を咎めだてされることもあるまい」

「っ」

 何かを言おうと口を開く。だが漏らされた声は舌うちにしかならず、槍を振るおうにも構えすら見せぬ相手に踏み込む気を削がれる。

「こちらは別に討ちあうても構わんよ……」

 その余裕が、その真っすぐに何かを見る――何故か曇りだけのない視線が、神経を逆なでる。誘われ手が出る若造になるつもりもないが……

「ハッ」と一太刀。
 旋回して、左下から再び太刀を浴びせる。
 その程度、振う所以は、あるはずだ。此処で討つ意味は見つけられないが、何もぶつけず逃すならば歌舞伎者とは言えぬだろう。

「構えるならば相手はしよう」

 その長い刀に手をかけて、一方で恐らくはまたあの火薬を、飄々と用意して……武将というより翁とも思わせる相貌で、彼はこちらに投げかけた。
 なれば、と握り直す太刀を、慶次の長めの袖を引くものが一人。

「――言っても無駄よ」

 小さく、だが、怒りを押し殺して。加勢をする気だろう。長年の武具の代わりに小太刀を隠す女の左手。

「アンタは」

「弾正……いいえ松永久秀。預け物は本能寺よ。あなたは取り戻せたのかしら」

 遠まわしに、濃姫が聞く言葉の意味が、慶次には呑み込めた。
 信長をはめたのかと。魔王を失わせた原因はお前かと。濃姫の意図は読めた。
 だが、それを呑み込んでもなお、今ここで聞きたいと慶次には思えなかった。
 恐らく、濃にとってはこれが最重要事項なのだろうが……現在進行形で失われつつあるものの前に言及する余裕などない。

 ――やっぱり、あくまで魔王の妻か。

 自分の中の薄情な部分が唸りを上げる。
 ぎりと。歯が鳴った。
 やすやす女をくれてやるつもりはないが、手が出せぬ己が歯がゆく、問いかけを待つ己が無為に思えてならない。

 ――女子供には優しく、って、恋は上等って標語に掲げてるってーのに、このざまとは……なさけねぇや。

 彼女とて、恋をしているのだろう。恋を捧げたのだろう。相手を間違っているように、勝手に慶次が理解するだけで。
 どこか遠く、思い人を間違えたかのようなその感覚を思い出しながら、ぎりと。三度歯ぎしりが出る。
 こうしているうちにも身内はますます窮地に立たされていくのだと、手を砂がすり抜けるような焦燥感も相まって。
 松永は「はて」と何か口走ろうとしていたが、やがて、

「欲したものを得たか……」

 心底驚いたような表情で、彼女の方を見た。

「いやはや、一生……いや二度と欲望を遂げることなく終えると思いこんでいたが、最期の最後に羽化するとは」

「……何が言いたい」

 念のためにと背にしているだけに、濃姫の反応は分からなかったが沈黙に耐えきれず、先に慶次が口を出した。

「まだ当人気づいてなかったと見える」

「っ」

「素直に欲したのならば誇ればよい。それとももっとを欲して構えるか」

 慶次にその意味は分からなかったが、濃は理解したようだ。そしてけしかけられた軽い炎から腹を庇った。

「……アンタ」

 ――それが答えか。
 またも重いものを背負わせてくれる。

「構えるかね。その女はもう魔王の戦力ではない。――正室だ」

 戦うのではなく、彼女が欲したものは――
 理解してしまえば、これ以上慶次から仕掛けることは不可能だ。守るべき夢が魔王と重なろうと彼女のものにほかならないのなら……

 ぐっと握りしめた拳の行方も、奥から溢れ出そうな熱量も今はただただ進むためだけに使わねばならない。それが新たなる災いの火種になるかもしれなかったとしても。
 戦意は互いに失われた。
 泰然自若ときびすを返す老人をみたくはなくて、後ろを向けば、先ほどとは遠い、きつい目をした女がいた。
 ――蝶の羽化とは残酷な例えだ……。
どんなに綺麗な羽を開こうと、彼女の願うのは最後の一瞬だ。
 ――死ぬなよ。
 生むまでは持つだろう。だがその後を描いて、慶次はどう表情を作っていいものか惑う。
「ごめんなさい」と彼女は言わなかった。謝ってもなにをされてももう覚悟してしまったに違いない。

「責任をもって成長を見届けるってんなら、俺は反対しないよ。決定はアンタにあるんだ」

「ならばどこかで――」

「見捨てろってか?」

 かぶりをふる。なぜこんな簡単なこともわからないのだろうか。彼女は。
 
「事実をしっちまったもんは何かを負わなきゃならない」

 気負わせないよう、ゆっくりその体に一枚上着をかぶせてやる。着物の上は派手に自分ばかりが目立つようにいつもの上掛けをもってきていたのが役に立った。

「辛気くさくていけないね」

 羽織らせて、抱き上げるとちょうどヒヒンと嘶く声がした。同時に鈴の音色。

「松風」

 やっぱり旅の相棒は一緒にいなくっちゃ。
 やってきた見事な毛並みの馬の喜ぶところをなでながら、「姫もいいかい」と優しく問いかける。お許しが出たところで、濃姫を先に抱えあげ、後ろから支えるように乗っかる。
 この後この二人が誰に出会うとも知らずに松風は走る。どの馬よりも早く。

本収録ですが、完売してから大分立ちました。再ろくまで時間がかかるのでアップします。