「豊臣につかぬか?」

――寝返れと?

「脅迫のつもりはない。戦況次第でもかまわない」

――抜けぬけと……。

よくぞいってのけるものだ。
これは織田の戦いだ。信長のことをさして知りもしないものがでて荒らすいわれはあるまい。
まつの記憶の中で、利家がぎりと歯をくいしめた。
信長が倒れたと知らされた、あの日のことを覚えている。
本能寺で起きたこと事実はいまだにしれぬが、嘘であろうと眼孔を鋭くした夫の姿を――

しかしどうだろう。

「まつは聞かなかったことにしとうございます」

「ならば仕方ない。ただ」

ここに来た現実(いま)だけをみてほしい。
続けられた言葉に――その重さにまつははっとする。

「此処にはよく……訪れた」

誰を連れだって、どの頃にか――言わずとしれている。
此処は前田が――かつてが織田が領地。秀吉が過ごした時分は限られているのだ。
ぎしと、思わず踏み出したまつに板張りの床が音を立てる。
この廊下を動かぬのは、忍び隠しにかつての姫様がいるから。濃のもと、寧々と過ごした日々をまつは忘れない。
あの尊い刻を破ったのは、彼だというに。あの子の笑顔を存在ごと抹消して、それでもなお何故話ができようか。

「忘れたおまえ様に興味はありません」

ふつふつとわき出る感情――途方もない寂寥感かはたまた怒りかに、我を忘れかけ、一歩、また一歩ふみだし、槍を構える己。
戦いにおいても平静を保てぬ女子でないだけに、非常に珍しく危ういさま――そんな状況に水を差したのは――

かたりと。
ししおどしにも似た物音で……



――姫様……。


存在を気取られぬよう、おそらくは濃が落とした櫛か簪。
落下音にまつは、冷静を取り戻し、空を舞う己の鷹をみつめた。
太郎丸とよばれた鷹は梅の木を巡回し、立派なまつのうえに、戻る。


――そう、ですね。

すぎたときを思い返すは茶番。
あれはもう終わったことなのだ。結果、今、がある。

「ですが梅の木(前田)に止まりにきた鳥を払うほど……無粋ではありませぬ」

梅鉢紋は前田の証。
まつも、梅の守護なれば、伝えるだけ伝えよう。どうとるかはわからない。
用はそういうことである。

「燕とて、うずらとて」

時期が遅すぎようと、飛びたてなかろうと――分が悪いと認め、自分を会わぬと知りつつも来たにせよ……受けてやる技量がある、それが加賀の国柄なのだ。
おまえが喪った郷の覚悟なのだ。

皮肉は通じたのだろうか。

ただ、

「それでよい」

秀吉はつぶやいて……馬を右に揺り戻す。かくんと背がおれて、岩に蹄をつける軍馬は堂々たるものではあるが、山の緑の陰、ほっそりとして見えた。

――戦況を判断するは殿。さりとて……

この戦いはいったい誰のものなのだろう。織田でも豊臣でもない、何か別の力に動かされているような心象に、まつはおののきながら、

「気づかれていたかもしれない」

「殿に急ぎ伝令を。あれは進軍の誂えにしてはいささか警備。木之元に張った陣はしばし動かれんかと」

ぎぃと。
出てくるかつての主姫と――自らの忍びが憶測に、ようやっと「今」に立ち戻る。

「急ぎましょう」

ラストちょい!