傾国の……(SIDE 濃姫)   >慶次・濃姫
【SIDE 濃姫】


上杉の陣にあって、こんなに安全だと思える日が来るとは思わなかった。
濃は、家主――あろうことに元は敵の武将だ――の用意してくれた御茶をいっこん戴きながら、自分の救い主を顧みた。
彼は前田に属している――だが、自分を救ったのは偶然だろう。
まつから、彼本人にその気がないことや、彼なりの水準をもって動いていることはきいていた。

――実際、こうして行動を共にして初めて分かることもある……。

前田慶次という青年は、どこか懐かしさを感じさせた。
利家と、あるいは信長と、全くちがうようでよくよく思うと重なる部分がある。
事実、

「確かめてくる」

そう切り出した青年の眼は真っ直ぐ前を向いている。
いっそ潔いほど、誰の介入も必要としない決意の瞳。

「どうするの?」

言いながらも、もしかしたら、濃はその段階で彼の考えなどとうに読めていたのかもしれない。
前田には……裏切りの相手があれだったことは知らせずともう届いているだろう。武田も撤退し、恐らくはそのまま兎の刻に集まった徳川と、前田をはじめとする元織田勢は開戦に踏み切るに違いない。

そのくらいのこと考えずとも、信長の先読みに務めた濃には理解できたが……彼も、おそらく知っている。
どこか本能で、濃はそれをかぎ取っていた。
だが、敢えて予想に目をつむり、相手の言葉に任せる。

「確かめたいことがあってね」

「本能寺の件は――もう結果が見えているから、別のこと……ね」

相手は、下剋上をなし、信長の下に踏みとどまったとはいえ、一勢力にすぎない。多勢に無勢という言葉は正しい。

「手厳しいな」

でも、そのとおりだよ。と彼は続ける。

「武田のことならば、確かめるのは難しいと思うわよ」

「ああ――違うよ」


――武田じゃない。
つまり、別口……伊達、か。

今自分が置かれている場(上杉)と、今回の件に関わらず此処に出向きかねない別勢力となればすぐに絞り込める。

「待っていてくれるかい。異国の姫君を安全な城に入れれば、従者の役目は終わりとはいわないから」

「風来坊の悪い癖かしら?まつが泣くわよ」

もっとも、私は姫なんて柄ではないでしょうに。
茶かす声に乗ってあげれば、風来坊は苦笑して見せた。

「怒られてるうちに戻るつもりなんだけど」

「あら、【戻る】の?」

「もしかしたら、かな。そのためにも確かめなきゃならない」

「行ってくるよ」と、振り向かず、大きな傘を一本。
何時の間にか手にして、彼は松風に跨る。
戦場に――恐らくは休止中の彼のもとへ駆けていくのだろう。
行き先に気づいた濃とて、慶次の心のうちは分からなかった。
そこは彼のかぶいている精神によるものだ。
生粋の姫で――殿の立場側に立ててしまえる姫である濃には理解しようもなかった。
慶次の中でくすぶる、赦しがたい苛立ちを通り越し侮蔑へと形を変えつつあるその気持ちは。
ただ、分かったのは一つ。
彼が掴んできた如何によっては、自分はこの地にひっそりとすることは再び叶わなくなるだろうこと。

――いつまでもここに燻っているわけにもいかないのよね……。

歴史の表舞台に立つことはもう出来る限り避けたいと思う反面、子を得るまで死ねないという強さが、濃に語りかける。
繋がれた命をつなぎ通さねば、救われた恩に報いねば……

彼が竜とあい、何を見るのかは測りかねる。
ただ、恐らくは

「加賀に戻る、か――」

歌舞伎者の里帰りに自分がいかに紛れ得るか。
確定する前から、用意に動き出す己を濃は知っていた。

――この平穏さにもようやく馴染んでいたというのに……

結局自分が采配を奮うのは、運命なのだろう。
彼と自分が会った、そのときからの――。
それならば、せいぜいその悪運を活用させてもらうまで。

「――まつと利家に世話をかけっぱなしというのも性に合わないのよ」

慶次を連れていくのが自分なのか、自分が慶次を連れていくのか。
分からぬ悪戯な人生に、多少口元を緩めながら、濃は、漢詩を置き――いまいちど虎の巻を手にした。
戦略と、その素養を記した、兼次の家唯一の兵法書を。