【SIDE 信長】
なんのかんのと平穏な日々は続く。
そもそも平和の世において、そうそう事件など起きないのだが、胸騒ぎが事実にならずに良かったと信長はチャイムを聞きながら思った。
屋上には今日は人がいない。
さぼりにはちょうどよい天気だ。
……と。
ふと視線の端に校庭が入った。
正しくは校庭の奥に、見慣れた人影。
体育ではないだろう。かっちりと制服を着込んでいるようだし、女生徒を連れ立っている。
「………」
――濃?
軽く結いあげた髪の漆黒はあの頃のまま。
はやりからすれば、まつのように多少色をかえていてもいいのに、彼女は信長が好きだからといって、変えようとしなかった。
生前も言った覚えがない(思ったことを認めるのは癪だが、それは事実なので百歩譲って認めるとして)ことだけに、スルーを通していたが、おかげですぐに分かる。
きりっとした面持ちと、柔らかそうな白い肌。
薄く塗ったリップの赤だけで、コントラストのきつい美人が出来上がる。
あの女は気質上、どうしても目立ってしまうらしい。
――これしき、いらだちを覚えるような理由は持ち合わせていないつもりぞ……
だが、あの男が敢えてそこに手をつけるのだとしたら、それはそれで腹立たしい。
――今なおあれには執着していると思われたということか?
そこが信長には納得できなかった。
妹にも、かつての知り合いにもそれなりに思うところはあるものの、決して此方側からは介入しないようにしていたつもりである。(浅井のように自ら入り込んでくるものは別として)
「不服か?」
まさにそう思っていたところに、にょきと、横から手が出てきた。
腕でロックをかけられながら、そちらを見れば、いつもの悪だくみの微笑。
「松永とは――妙な男に言い寄られておるのう。それとも生前から狙われていた口かな?おかしなことじゃなか」
「島津……」
「おまはんが消えたとき、御正室の行方がしれんことは皆知っておる。それならそれで納得いくけぇ。松永の手で攫われれば、あの時分探せようもねぇ」
「互いに潰えた後の話はしない主義ではなかったか?」
実のところ、濃の最期については聞いたことがない。本人にも記憶が不完全だから、この先聞くこともないと思っていた。魔王の妻ならば、どうせ碌な死に方はしていないに違いなく……あまり面白い話とも思えない。
制止する意味も含めて、問いかければ「よか、よか、もう言わん」と素直に引き下がられて戸惑う。
島津は信長を見て、すぐ素直に謝罪しながらも、また悪戯に笑って続ける。
「ただ、おいは安心しただけじゃ。現世(いま)のおまはんは、まるで色がなか。もったいなか」
「……」
あの頃に比べては存外に若返った島津だが、それは見た目だけだったのか。
がははと笑って、「やっぱりあのおなごがよか?」と尋ねる剣の鬼にため息を投げる。
「色がないとはずいぶんな言われよう。心外だ……」
信長は実際モテテいたし、女に興味がないわけでもない。
――ただ、眠らぬ記憶の手前、美意識が多少高くなっただけのこと。
「だが、今のあれは違う」
「ほうか?ほうか?ほんに、違うとおもっちょるんか」
「――……」
下品にならない、からっとした鬼の良さ――剣の道のすがすがしさは嫌いではないが、これ以上踏み込んでくれるな。
苛立ちはある。だが、いまだ自分の心で、唯一過去と蹴りをつけられていない部分を指されては、ぐうの根も出ない。
軽く睨みつけるも、島津は全く堪えた様子もみせないことを知っていたから(こんなところだけ、としかさを重ねた図太さを持たずといいと思う)信長はにやつく鬼の視線を無視する。
島津は、言い過ぎを悟ったか、静かにはなった。
買ってきたコーヒーのふたを開けて、やがて、「これ以上はしつこくなるな」と下を見やり、そのまま踵を返す。
ただ、一瞬のすれ違い、その視線が導く先に信長は濃を見つけた。
「………」
嫌な沈黙だ。
屋上のドアは開かない。
それは背中の島津が立ち去らない事実を端的に示している。
そして……信長は知っていた。
島津は退き方を心得ているようで、そんなことないのだ。
弱点をみれば、つかずにはおられない。進める部分で止まることを許さないまことの剣鬼。
魔王はん、と呼びかけてにやりと笑ったあの日から、前世での自分のちょっとした罪悪感(すべてを否定する気はないうえでの、ちょびっとの隙間)をたくみに使って、からかうあの者は、少しでも目をそらすことを許さない。
からかいながらも、≪あの生の続き≫を受け止めるよう促す。
――であればこそ……
「あれがかつての道三の娘であろうと、おまはんの妻女であろうと、ただの帰蝶であろうと――松永には関係なか?」
核心をつく。
「風流を愛するのが松永、美学に敵えば、≪あり≫じゃろ」
舌打ちするほどの若さもない信長ができるのはただただ黙って甘受するだけ。今まではそうだった。
だが、どうしてだろうか。
余裕はあれど、言葉に同意して先を焦らせる自分がいることに気づいたせいか?
「そう言われて気にせずいられるような、老いた体でもない」
「なら急いだ方がよかとね」
いつもならないやりとりが加わる。
だが、それにびっくりしている場合ではなかった。
「ほれ」と促す島津につられれば、寄りそう二人の男女。
髪にからんだ桜でも取ったのだろうが……そのままにぃと上唇をあげてこちらを臨む彼、松永久秀は、恐らく信長がこちらを見ていることなどとうに知っていたのだ。
「松永はんば無粋を嫌う風雅の御仁。女人の方から寄ってくると聞いちょる」
――確かに。
今信長がしる松永も残念ながら、そう思える部分があった。(なんのかんの市の横を通るときですら、道を譲った仕草などはそのまま現代ではレディーファーストといわれるそれ)
……だとすれば?
≪濃に限って心配はない。
あれは、高い矜持とそれに見合うだけの眼を持った女よ。≫
そう、きっぱりと。あれに惹かれる彼女を否定できるだろうか。今の彼女を――。
「………」
分からず目をそむけるのは、信長らしくもない。
だが、ぽつりと。口をついて出る息は弱く、答えを必要としない問いは島津を全く無視していた。プライドも減ったくれもなく、純粋な疑問符。
「あの女は誰だ……」
――あの女と濃はどこまで同じなのだろうか。
いったんわきあがった問いはどこまでも信長を苛む。
一人より大きく、複雑な記憶、思いを抱いて生まれてこの方、大方の問題は簡単にすぎてしまった。
――……確かめることは怠ってきたやもしれん。
上総之介ではなく、信長の名で呼ぶ彼女に意固地になったつもりもない。
それでも、「いずれそばに」と思いながら、距離を詰めぬまま居た信長は、その≪いずれ≫がいつだか分からなくなった。
≪あの目を完全に手に入れる確信≫がふっと揺らぐ。
瞬間、
「おいが言えた義理じゃなかと思うけん。おまはんも、わからんひとじゃ」
島津はさっきの面白がる視線から、急に呆れたような調子で言う。
口調が現代に戻っていることから、本気と知れる。
「今も過去も関係なか。なんにこだわる?」
「っ」
「分からないなら触れればよか。少し食い違う程度でいらないと思うなら、数日持たず終わるだけ。でも、学生であればそんな日常茶飯事。問題なかとね」
「手に入れることならば、松永よりも上を行くのが魔王だとおもったが違ったか」と問われれば、流石に否定したい(「あんなに強欲ではない!」)ところだが、一理あった。
こだわりは消えず、だが、彼女が彼女だと思えるのだとしたら手放すつもりがないのなら、
――近づいて確かめる。
それだけだ。
信長はかつてと同じく現世においても、失念していた。
彼の彼女に抱く想い……人は、独占欲と呼ぶ。
ごめん、まだ続く。今度は濃姫視点か、松永視点。殿、恋ですよ、それ!の巻。