鍵(3) >松永・濃姫・信長
【SIDE  斉藤帰蝶――濃】

彼の姿を見たとき、どうしようもなく胸が疼いた。

「いずれおそばに」と言ったときは拒まなかったくせに、なぜだろうか。
このところ、ろくに交流すらもたせてもらえない。
上総之介様、と、呼べばいいのだろうか。
でも、【彼】は【斉藤帰蝶】にそれを求めない。
むしろ現世(今)は現世(今)だから気にするなと言う。

――今の私が彼に憧れるのは許されないことか。

≪【俺】は【濃】には応えられない。お前はお前として生きよ≫
≪お前は、かつてと今を混同している≫

直接聞いたその声は、ちくりと胸に刺さり……抜けない。

――確かに前世の全てを覚えてはいない。
微々たる破片を繋いで、残った情報から導き出されることは少なかった。

 自分があの男を愛し、その子供を欲しかったこと。
 彼がなかなか「是」としなかったこと。

考えようによっては妄言と捕られても仕方ない、儚く、女々しい夢だ。
けれど、それだけを忘れなかった。覚えたまま、現世(ここ)までたどり着いた。
【斉藤帰蝶】……「似て非なる者」の、意固地な終着を、彼は愚かと笑うのだろうか。

それとも、そもそもかつての世にせよ、同じように濃の子に興味がなかったのか。
実際覚えていないのだ。
結末自体を帰蝶は忘れてしまったのだ。

だから続きを、答えを探している。

分からないから、せめて……今【彼】を好きになりえる理由を探したい。前世の自分を証明するか、今の自分らとかつての自分らの差を見つけるまでは引きさがれない。
感傷に流されない女、冷静なまむしの娘≪濃姫≫は確かに斉藤帰蝶の中に息づいていた。

だからこそ、今――こうして校庭に向かう途中ですら、濃は【彼】の姿を探すのだ。その教室を見上げ、まっとうに授業を受けているとも知れない面影を、せめて〜と追う。逢えない今できる精一杯だと分かっているから。

「?」

ところがどうだろう。
彼ではなく、別の見知った気配が着実に近づいてきていた。

「過去にとらわれているのかね?」

ふと、聞こえた声に、帰蝶は、踏み込みかけていた間をあわてて空ける。

「誰?」

平和ぼけはしても、この時代とて敵は山ほど行る。
ストーカーやストーカーやストーカー……
たまに写真家やモデル事務所の自称スカウトマンもまざったか?
なんにせよ、ロクな目に遭っていない。
警戒が先に立つ。
そんな中で、それでも声の主がそういった類の輩になりえないことを濃は知っていた。


「どうして、貴方が……」

「君も覚えているのだ。私が覚えることに何の不満がある?」

「――そうね」

記憶の中で、男が笑う。
確か秋の、夕時雨。
あれは誰の城だったか。
理由も事情もあまり覚えていない。
ただ、その男の声だけはやたらと覚えている。

≪子を生したいなら、素直に欲しがればいい。好いておるならそれも言えばいい。まむしの娘にしては欲のないことだ≫

 『君はもう少し賢いかと思ったがね?』
 皮肉にも後押しにも聞こえるその問いに、女はどう答えたか。

 ――確か笑って…………

「っ」

考えるうちに、間を、一歩積められていた。
びくりと震えそうになり、慌てて毅然と姿勢を正す。
強がりでもこの男に侮られたくない、自分が今もいる。

「失敬」

声と同時か。
指先がゆっくりと髪にかかる――。……かとおもえば、肩付近の花びらを払い、また一歩距離を置かれる。

――そうよ、この男は女性に対して扱いを心得ていた。

極上の扱いに慣れきっている姫、自分にたいしても、下女に対しても、あたかも相手を想うように振る舞える風雅人。
記憶の中で自分は男の「そういうところがイヤだ」といい、本人にその発言を感心された。

「お久しぶり、というべきか」

「こちらこそ、弾正殿」

「これはまた懐かしい呼び方を……。はて、彼が敢えてそばに生まれた蝶を放つとは思わなかったが、羽が損なわれているか」

記憶の不完全を暗示する松永に、濃は弱みを見せたくはない思う。
しかし、その迷いすら、見抜かれることもまた経験上知っていた。
松永は、嘘は言わない。
無駄は省き、真実を突きつける男だ。

「現在の私と君のあいだにどんな禍根があると?」

「――そうね。過去にとらわれちゃだめよね……」

「私としては今の君があの男以外を欲するのであれば立候補してもかまわないくらいだが?」

どうする?
もちろん今すぐとは言わない、と言外に含ませたまま、あの細い瞳が此方に流される。

かつてもこの初老の男を≪整った顔立ち≫だと思ったが、ほぼ同じ齢まで年を戻した男は、予想以上の色香を纏っている。
はっきり言ってしまえば、その誘惑に抗うことがなかなか難しい、紛うことなき≪美青年≫。
帰蝶とて揺れないはずはない。
それでも……

「花のように埋けられる趣味はないの、ふさわしい器がある者だけとは限らない。絵合わせは他でやってちょうだい」

「同じ返しをするか」

あのときは、貝合わせだったが。と、そう振り返る松永に、濃の口からついて出た答えは――

「残念ながら覚えていないわ。だから本当に思っただけ」

【彼】と対比などしなくとも、他の者を選ぶつもりなどやはりない――そういうことだった。
そうやって、信長を選ぶ自分を思い知るたびに、≪失恋するような感覚≫が齎されるのだとしても……

「苛烈苛烈。結局、元の人格がそうだというのか。君に私が贈れるものは少ない」

くっくっと低い声が笑う。
だが、それはあまり不快なものでもない。

「君には、そうだな……やはり  を与えるか」

それではあの男への餞になってしまうかもしれないがね。そんな風に、自嘲する松永の言葉も気にならない。

――自分のルールに従うことが、この男のルーツならば……

恐らく、帰蝶……濃はその法則に乗っ取ってしまっている。
知っていて、だから静かに瞠目する。
松永の理論を受け入れるその選択こそ、信長が知れば「とんだ狸かフクロウか、化かされるな」と叱ったろう。
けれども、信長は現れない。
そのうえ、どうにも困ったことに、濃の中では、純粋に松永と言う人間を信じてしまえる部分があった。
かつては分からずと、今ははっきりと。
対峙したところでもうかつてのような緊張や警戒はないだろう。

「もっと思いのままほしがればよい。もう少し聡明な方だと思ったがそれも私の勘違いか」

「――松永」

こんな冷たい、ずいぶんな言いようも、さほど腹にたたなかった。
からかうように告げる声が、どこか温かいと……錯覚を起こさせられたからかもしれない。

「君ほどの女性を袖にするとは魔王の目が曇ったか」

あるいは、このようにお世辞のように付け足しながら、半ば本気で【濃姫】にある種尊敬を抱く【弾正】殿を、どこか不遜に関知していたから、かもしれない。

だが欲しいのは、一人だけなのだ。

「いいえ。あのときから欲しているのは私」

「ほお。今もかね?」

「あのときの彼であれ、今の彼であれ、関係ないと思えるのならば」

「まだそこには至っていないの」と、告げるのは癪に思われて、仮定の部分で話を終える。
確かめるためにはどのみち近づく。求める、その欲望にまっすぐな帰蝶を松永は否定しない。

「自由な蝶は、嫌いではないよ」

勝手に散って、消えたとしても。

一言多く、残して、男はいつの間にか校庭を去っていく。
授業はまじめに受けないらしい。
気分で動きながらもどうせ上手くやっているのだろう。
想像がついて、おかしかった。
あんなに記憶にさいなまれ、結局、その一端しか手に入れられなかったのに細かいことは意外と忘れていない自分がいる。

――たぶん、彼をそんなに嫌いではなかったのね。

その答えがある意味、大外れであることを濃は知らない。
知れば、あくまで自分は現世(いま)の感情に染まり、少しずつ知っていく信長にこそ囚われている事実に気づけたのだろうが。
慕情のスタートはいつでも興味や好奇心。
芽生え始めた想いに、濃はまだ気づけない。



次はたぶん松永視点。あて馬じゃねーぞ ゴラァ。弾正様は遊んでらっしゃるのです。
若干、前世話書かないと分からないよね、って話かもしれない。