「先生、黒板の位置、低くてみえません」
(むっかつく!)
これがどんなにからかいの言葉だったらいいことか。
こともあろうに、指摘してきたのは優等生(女)だったりするのがたちが悪い。
面と向かって怒れないではないか。
岳人はじたんだを踏みたい気分をこらえた……つもりだったが無理だったらしい。
「がっくん先生、おこんなよ〜」
一部の男子生徒がすかさず突っ込みをいれる。
「うっせー!黙って板書しろ!」
叱り付けると「すんませんー」と悪びれない声が返ったが、幸いそこはそこ。いい学校だけあって、クラスはすぐさま静まった。
他の授業だったらどうかは分からない。
岳人の授業はこれで受けがいいのだ。
結局そこまで伸びなかった身長のせいかもしれないし、人柄のせいかもしれない。
とにかく人気も手伝って、選択制の授業にもかかわらずやたらと人数が多いのである。
それだからこそ、こういうことがおきてしまうのだが。
「いいか。注目!……ここはmolをだな……」
「つーか……今気づいたけど、がっくん先生ってなんだよ!!」と小さくつぶやきながらも、大人気ない態度を改めて、岳人はすぐ解説を始める。
届かず跳ねながらの板書でも、しっかりと内容に注目が向かってきてる実感。それは岳人の心をほんの少し楽にした。
生徒の真剣さが心地よい。
きんこ〜〜ん
チャイムが鳴るまでにすべての問いの解答は生徒の指摘・質問も入れつつ、つつがなく終わった。
* * * * *
「すごかったっすね」
先生ながら助手も兼ねる新任の室町が、授業後、声をかけてきた。
「毎回あいつら板書ばっか指摘しやがって……。よりによって何で問題児外なんだよ」
ちっと舌をうった岳人の毎度の身長談義に苦笑しながらも、室町はまあまあと、半ば関心したように付け足す。
「でも佐藤とか吉沢とか、毎度質問にきてるじゃないですか?……俺んとこなんて無視ですよ」
自分たちでできる子にきくのはいいけれど、それも味気ない。
その点「がっくん先生」への、失礼にならない程度の気軽さは、室町にとってはうらやましいらしい。
ちゃんと「先生」として、慕っているからこそ、子供たちも場をわきまえて、やるべきときはやるじゃないか?と彼は語った。
「そうかぁ?」
いまいちぴんとこない岳人はため息まじりのまま、化学準備室に足を踏み入れる。
室町もそれに続いた。
が、一面に広がる風景に、「これだけは何とかできないものか」と真剣に、後輩教師は頭をかかえることになるのだ。
机の前に広がるプリントの山、片付けきれていない実験器具……
几帳面なところは几帳面すぎるほどにもかかわらず、面倒になると放って置く岳人の悪い癖の終結地点だった。
「きたねぇ」
げっ、と当人が顔色を変えるほど。いわんや周囲をや。
「ひど――」
「ひどいねー……」
「うわ、滝」「滝さん」
突然、横からぬっと顔をだした声が後輩の失言をある意味未然に防いだ。
家庭科担当の滝だ。
びくっとした二人を尻目に、さらりとした髪をなでて、
「次空き時間だよね?そろそろやばいと思ってたんだけど……忍足は手伝ってくれないの?」
「それが侑士のやつ、頼んでも手伝ってくれねーし!……て俺がやるべきなんだけど、乾とか柳のやつがさぁ、くじ引きでおしつけっから最近忙しくて――」
これに思わず声をあげたのは傍観者になろうと一歩後退していた室町だった。
「え?主任って幸村校長じきじきの指名じゃなかったんですか?」
そうなのだ。
化学だけですむのならまだしも、全体の会議や運営方針についての要は、「理科」全体で行うことになる。こともあろうにその代表である「主任」は岳人だった。
整理すべき資料や書類の忙しさは横でみていた室町からも明らかだが、それがよもや『くじ引き」沙汰で決まるとは(新任教師は少なくとも)思わないのが普通である。
「え?そうなのか?滝?」
――でも俺マジでくじ選ばされたぜ?
岳人は、「あの二人なら計算づくとか、余興とかで……バッグに幸村がいても……」などとさりげなくしっかりとした計算(あたらずと遠からず)を打ち出したが、滝は、軽く肩をすくめるだけだった。
「俺にきかれても……」
それはそうだろう。
室町はシーンとしてその見解を待っている。
「でも、多分『あたり』だね。俺んところは主任の指名がなかったけど、呼び出しは全部なぜか俺にくるし。……本人なりの代表はあの人のことだから決めてるんだろ。ならいっそ【主任】の方が聞こえもいいし、岳人も納得するんじゃないの?」
「……う」
一理ある。
(――て、幸村って昔っからそういうイメージだよなぁ……)
「……で?それはさておき。どうする?片付け手伝ってもいいけど」
「うわっ、マジ!頼む滝!俺一人じゃどうしようもねぇし、室町にやらせるわけにいかないしよ」
「本人がいる時点で既に先輩としての面子も減ったくれもないのにねー」
「きついな、相変わらず」
「といいますか、滝さん……俺一人いたところでこの量は無理だと思いますよ?」
「だろうねー……」
取りあえず室町は安心した様子だったが(滝の毒舌にはいつもどきどきさせられているにちがいない)岳人は「さて」と内心腕まくりをしたい気分だった。
滝がただ働きをするはずがないのである。
(さっすが持つべきものは友達だよなー……ってせりふ、一度はいってみたいぜ)
それもあの環境(俺様が頂点な環境)じゃ無理だろう。
ここはその延長なのだ。
(まだ外語科じゃないだけましってやつじゃん?)
すぐに切り替えて話を切り出す。
言われるより言いだす方がましだ。
……たとえ室町に関係(氷帝全体の昔の)を疑われようと。
「で?報酬はなんだよ?……俺じゃないとできないんだろ?」
「さすが岳人。持つべきものは友。話が分かるね」
こんな場面で憧れのせりふを使われたくはなかった。
岳人は凍りかける顔面を何とか建て直し(余計苦々しくなるが)「はは」と乾いた笑いを浮かべた。
* * * * *
「って?こんなことでよかったなら、早くいえよな。な?室町」
「……は、はあ」
「お前、やんないの?」
「え、やりますけど」
「だろ?」
意気揚々とそれにTRYしている滝の横で、岳人は室町に平和そうな顔を向けた。
「でも、これ、うちんとこ(家庭科室)じゃ不可能だしさ。岳人ならきっとやってるだろうなっておもったんだよね、俺」
そう。
こともあろうに、滝が報酬として望んだのは……
「あ、そろそろできると思いますよ。もう一時間たちましたし」
「おうよ。じゃ、取り出してやってや」
「はい」
「悪いね。室町」
実験具のほか、教員の飲み物やら食べ物をいれる冷凍庫から取り出した【試験管】。
ゆっくりと中身が取り出され、それは綺麗な……
「試験管アイス。食材さえあれば家庭科室は、跡部が持ち込んでくれる調理具のおかげでA級グルメには余念がないわりに、こういった学校ならではのものは味わえないんだよ」
「なるほど。俺としちゃ、そっちのがうらやましいぜ?」
「俺もですね」
「っていうけど、そういう時は外語科のみならず動員人数がとんでもなくなるんだ。……午後の仕事がなくても、ペイなしのバイトをさせられるような気分になるし、作ってる方は楽しくないよ」
「…そりゃそうだな」
(外語科っつったら濃いし、跡部だけでも……な?……大変じゃん。それ?)
そういえば、いつだか滝を訪ねていった昼休み、不二だのその弟だの、似非くさい笑顔の美術教師だのがまざっていたことがある。
思い出し、岳人は遠慮したいかもと考えを改めた。
岳人とて、嫌いではなくとも得手不得手がある。
「それにしても、すげーよな。滝の魔法」
「そう?」
「うんうん。だってさ、あれだけ散らかってたのがこんなにぴっかぴかなんだぜ!」
「感動しますよ。綺麗なうえに暖かい雰囲気ですよね」
物理みたいに、殺伐とした雰囲気もありません、とはいえなかったんだろう。
言葉に一度詰まりかけた後輩に、ことを察した岳人と滝は一瞬顔を向き合わせたが、すぐ簡単調理器具の方に視線を戻す。
アイスを食べ終えた滝は、今度は岳人の方のそれ――ガスバーナーであぶっているビーカーを見つめていた。
「これでさ、こそっと食堂からもらってきた卵とかいれんの。超おいしいんだ」
「へえ。じゃ、持参した蒲鉾とかいれてもいい?」
「いいぜ。滝、本気でこれやりたかったんだな」
中身はいわずもチキンラーメンである。
ちょうどいいサイズのビーカーは透明で、すぐにもスープの色が見えて、実験なのか料理なのか分からない有様だが、やたらとおいしそうに見えるのが不思議だ。
滝が頼んだのは実験具をつかったB急グルメだったのだ。
おかげで、滝は念願かなって実験料理を楽しみ(ついでにものすごくその料理をおいしく工夫してくれた)岳人たちは清潔かつ、すごしやすい部屋を手に入れた。
お互い幸せな一日、一時間がまたすぎていったのだった。
written by MAYMOON