「あ、ごめ……」
んなさい。
そう言おうとした次の瞬間には、もう――彼は冷たい笑みをたたえていました。
目の前にはが落した瓶、そしてその破片と飛び散った液体……
「ええと……」
言い訳が思いつかない。
さて、どうしたものか。いつもならば、もう少しマシなことが浮かぶところなのだが、頭が高速回転する以前に空気によって凍らされてしまっている。
だ、だれか、きて――と。
助けを求めたいところだがあいにく出払っている。
まあ万が一山崎がいたところで、この中に乗り込んでくれる可能性は皆無だ。
「今割ってしまった、の、は……その……」
落水、なのだろうか。
いやいやいやいや、それだけは勘弁してほしい――と願うである。
だが、しかし、こういう予感だけは昔から(哀しいかな)外さないのだ。
「分かっているのなら、聞かなければいいでしょうに」
「いや、だって。そしたら…・・」
「ほら、どうも出来ない。――大丈夫ですよ。あなたにどうこうしてもらおうなんて考えていませんから」
ぐさり。
の心には、ナイフが突きたてられたようだ。
――つまり、役立たず。
そういうことである。
「で、でも、このままっていうわけには……あ、」
そうだ、さっさと拾えばいいのだ。それで、作りなおす。――それしかない。調合は特殊だが、大分分かってきた。かねてからたしかめたかった効能のために、イチジクを足してみるのもいいだろう。
――分かったら、急いでこの場を……
そう、手を伸ばそうとする、その前に……
「な!山南さん、何やって――」
「何って、見れば分かるでしょう。どうせ、君が素手で拾うだろうと思いまして、先にやったまでですよ」
「先にって……流石の私も」
「雑巾でももってきます? 何も考えず手を伸ばしていた君が……」
「そ、それは……」
「覚えておいてください――羅刹にもなっていない君がこの液体に触れることを私は好まない」
「そ、そんな、べ、別に触った程度では」
実際、データも接触だけでの変化を示してはいないのだ。そのことは、沙希より山南敬介その人の方が詳しいはず。だというのに、何を言い出すのだろう。
まだ混乱しているままの状態で、が床の液体から山南さんの方に目を向けると……
「あ…・・」
陶器(瓶)の破片をつまみあげた男の太い指先から、じくりと――小さくはない赤い雫が滴りおちようとしていた。
「おや、きれましたか?」なんて、当の本人は平然としているが……
――わ、私のせいで、どうにかしないと……
は完全にパニックを起こしていた。
というのも、此処連日見ていた資料は、羅刹と血の関係について。
血を見れば羅刹は、惑う。惑うならいざ知れず、それを欲して、狂う。その衝動が多く、長いほど疲弊にも繋がり……
――どうしよう。山南さん
血が、血を……
こうなると、もう自分の、血は例外なのかもしれない、という推測はもはや浮かんでこなかった。
必死の思いとはこのことを言うのだろう。あるいは混乱とは。
思考がショートする。と、同時に――
「っ」
な、なんてことを、と―ー
続ける声も聞かれず、は彼の血――指を食んでいた。
「んむっ……っ……んっ……」
「な、――」
上司の絶句に、上目をつかって、伺えば、彼は文字通り目を白黒させていた。
が、は、『取りあえずこれで、止血くらいできたかな?』と、その指先にばかり神経を集中していたもので、あんまり状況を理解できていない。
――意外と、硬い……やっぱりこの人も剣をふるっていたんだよね……
出来ないことは、さぞ悔しかっただろう。だからこそ、羅刹となった今、再び熱心に鍛錬をし、ここまで筋肉を戻したのだろうか。
などなどと――考えながら、唇を離せば――
「慎みがない――」
降りてくる絶対零度の声。
「そう言われたことはありませんか?」
びくり。
の肩が震える。
「え、な、何が、?」
――てか、何かしたか?私?
覚えがない。が、異常に恐ろしいその雰囲気だけは、はっきりと分かる。
「ならば――実践で教えた方が速いか」
ぽつりとそう呟く言葉をききとるが早いか否か――
「っ」
逆にとられた指先をぞわりと――何かが這っていく。
「ゃっんっ――」
「」
「話さなっ、でっ……」
「離して欲しくないんですか? 本当に厭らしい」
「な――」
「貴女はもう、黙った方がいい」と――。
生温かく指先を這いまわる長い舌が、一時的に離れ、警告を紡ぐ。
やがて、警告は真実になり……
「んっ……」
言葉ごと呑み込むように、不安げに閉じられた唇を食んでいく熱。何が何だかわからないうちに、あっという間に、止められたのは言葉どころか、心の方だ。
あげく、
――やだ、もう離して、やめて、――やだ!!!
恐慌状態に陥ったを封じ込めるように、血を止められた指先はの後頭部に回る。抱え込むように、駄々をこねた子をあやすように……あくまで優しく触れていった。
* * * *
数分後――
完全に大人しくなり、床にへたり込んだと――同じ視線にあわせるように、山南はゆっくりしゃがみこみ、
「分かりましたか?」
と、言って寄こした。
かっと、顔を紅潮させて、が涙目にそちらをにらめば、
その様子を皮肉に笑って、
「大人げないことをしてしまいましたね」
からかったのだと、意地悪くつけたす。
――言葉で言われればわかるって!!!!
いいたくても、まだ立ち直りきれていないを背に飄々と割れた瓶を片付けて……
「もう、触れてはダメですよ」
穏やかな表情が告げる。
「……山南さん?」
去り際に、「後でまた」と振り返ってくれたのだけれど。少しだけ、その横顔が寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
――吸われた指先が熱い。
唇を奪われたことも忘れて、は何だか泣きたいような、やるせないような気持ちを抱く。
部屋に行けばいつもどおりのやりとりが待っていると知ってはいても――どこかそれが切なく思えるのは、どうしてなのだろうか。
――八つ当たりでもいいから、怒ったり、わめいたり……もう少しあの人も感情を抑えないでくれればいいのに……
「そう思うのは、我儘なのかな」
囁きは残った液体とともに、床にしみ込んでいった。
END
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