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【 SIDE】
こんなに精市の側に居るようになったのは実は高校に入ってからのことだった。
入学手前の目立たない時期に、私は怪我をした。
精市の病気に比べればリハビリも楽だし、大したことのない――だが、一般的には大きな怪我――薄利骨折。しかも一箇所ならまだしも複数、複雑骨折だとしって、手元にあった楽譜を全て破り捨てたのは当然のことだった。
コンクールは四月上旬に控えていた。
アマチュア枠だったけれど、引っかかったのは私ともう一人だけ。
精市がテニスをしているのと同じとまでは行かない戦績だったが、それでも私も私なりに道(ピアノだ)を探して、必死に走っていた。そう言えた。少なくともあの頃は――。
「。練習してたのか」
ドアが開いて手が滑った。
不協和音が響くも、相手を知って、また指は滑らかな音を紡ぎだす。
会話に耐える程度の、遊び程度の音源。
「ううん。鍵盤をいじってただけ」
相手は、望む人ではなく……それに少しだけホッとしつつも、気落ちした。
こうして私が音楽室に通ってることを、精市は知らない。
でも蓮ちゃん――柳蓮二は知っていて、気にかけてくれる。
リハビリはコンクールには間にあわなかったが、その後に頑張った分、今でも弾けないほど痛まない。人並み以上の演奏は出来た。
ここの先生は生憎、事情をしって、期待するだけの「汚い大人」ではなくて、本当に音楽が好きでどんな形でもいいから関わろうと「先生」を選んだ人だったから、私はこうしてこっそり第二音楽室の鍵を託された好意に甘える。
流石に持ち物化させるのはマズイ、ということで、休み時間と朝、それに放課後時おり吹奏楽の練習がないときだけになるが、準備室からいつでも借りられるのは本当にありがたいことだ。
「そうか。それにしちゃ難易度の高い曲だな」
「どうだろう。……まあ今はこれが精一杯だろうな」
「それだけやれれば本格的に始められなくはないだろう」
これでクラシックの知識が全くなければ素直に怒れるが、彼は物知り、かつ、実践的にもそこそこに詳しい。本人が弾くことはなかったが、母親も従姉もピアノ歴が長く、プロレベルときている。付き合いの長さは、精市より短くても……私もそっちの関係でお世話になったことがある身として、簡単に「放っといて」ともいえない。
「左が激しいからこれは出来るの。右は……幻想即興曲ですら後で痛むんだから無理だろうね」
「そうか……。でも、俺はその曲の方が好きだ。ショパンなら、だが」
「革命?意外ね。こういうのは――」
「精市の方が好む、か?」
「……」
お手上げだ。
思考が読まれている。
こういうとき、幼馴染は嫌だなと思う。もっとも精市とのやり取りに比べればこれくらいなんてことなかったが。
物悲しいが強い――そういった色調を、精市は好んでいた。
私以上に蓮二の方が知っているだろう。
精市を追っかけていたのだから。他の目標と一緒に、だが、テニスする他でも精市を見てきた人であることに違いないから。
ベートーヴェンなら月光の第三楽章、ショパンなら革命、リストも趣味だったと思う。ハンガリー狂詩曲と、あとは何だっただろうか?
彼に向けて、は、入院前に弾いた演奏が最後になってしまった。
コンクールに必死で、私は幸村精市のために弾く、という最初の目的を失っていた。
でも、運動だって同じ。
精市がいったことが今は痛いほど分かる。
『誰かの為だなんて考えてたら、完全な状態にはたどり着けない』
『ゆとりができるようになったら、そのとき側に居られればいい』
軽く流した会話を彼は覚えてはいないかもしれない。
柳は演奏を止めたことを詫びると、横の椅子ではなく、距離を取って窓枠に腰掛けた。
何となく鍵盤を走らせた指を、私は少しだけ速めた。
ここはアレグロ?いや違ったか……。
* * * * *
黙って見られているのもなんなので、何か聞きたい曲があるかと聞いたら、「パッヘルベル」と返事が戻った。
リクエストに選ばれたカノンは有名すぎて女の子が騒ぐからあまり弾きたくなかった。昔からすきなのは重厚な曲や難解な曲で、表現力を問われることを恐れるように前奏曲や、簡素なフーガは避けて通った。
「好きじゃないのは追いつかないからか?」
茶化す彼を無視して、左手が右手を追いかける。
このくらいの難易度ならまだ付いてこられる。
ふと手が痛くなるまでスピードを上げてしまいたい衝動に駆られたが、我慢だと言い聞かせ、完璧な演奏を終えた。
「これでいい?……もう蓮ちゃんのために二曲は弾いた」
「自分のための曲は何なんだ?」
「革命」
最後に練習していた曲目はクリアこそ容易いが、完全に聞かせる演奏に耐えうるには相当の修練を必要としている。
ピアノはときに体育会系で、時に数学だ。
解き明かすことは必要で、だが、ある程度までは忍耐が試される。
自分を苛めるように打ち込むことだってないとはいえない。
「止める人間がいないところで、そんな曲は関心できない」
「分かってる」
「いるなら……いいが」
「何それ?」
ジャーン。
激しい否妻のような音から、一気に下へ駆け下りる指先。
それが途中で、一音づつずれたが気にせず仕切り直す。
カノンではなく、これが私の、エチュード。
「ブン太と柳生」
「ああ、紳士は知ってる。去年委員会で一緒だったから」
「ブン太は」
「どこから仕入れてきたネタ?でもね、蓮ちゃん。私は自由なんだよ。自分で精市の側にいるって決めてるだけで、精市は止めない。それから、ブンちゃんは友達になっただけ。巻き込んだりはしないから安心して」
「知ってる。は誰かを好きになったりしない。には精市以外――」
「……分かってるなら意地が悪いよ」
「、自分のことは自分が一番分からないものだ。周りを見てみろ。お前は許されてる。……精市を縛らないでやってくれ」
「側にいるなってこと?」
「そうじゃない」
分からない。
首を傾げたら、本気で困られたようだ。
そういうとき、柳は薄い目を開いて、こちらを真っ直ぐ見る。伝わらないか?と聞くように。
言葉はされて始めて人のものになる。
言われなければ分からないこともたくさんだ。
「俺も悪かった。もどかしくてな」
彼がどうして「もどかしいのか」は分かる気がする。
――だって、たぶん……
「ごめんね。……でも精市も悪気はないし、私がそうさせてるだけだから」
ねじれた二人を見たくないのだ。
それでも見えてしまう。
柳蓮二は優しいから。
「そうやって謝るな。俺は俺でただ心配してるだけ。これも自由だ」
「そっか」
「そうだ」
沈黙のかわりに、静かな演奏。
その合間に、キンコーンカンコーンとお決まりのチャイム音が混じった。
「あ、そろそろ、部活」
「ああ。今日は自主トレで早めに上がる。精市からの伝言だ。それを伝えにきた」
「『待っててもいいよ』って?」
「いいや――『テスト前だから問題児の面倒を見ててくれないか』、と」
「珍しい。頼むごと?」
「『どうせ待ってるんなら』、と仕方なさそうにいってたが、実質はな」
「分かった。で?問題児って?」
「二年生と、三年生、一匹づつ。勉強を診てやってくれ」
「……なんか嫌な感じがする。精市のことだから直に当ててくるでしょ?三年って誰?柳生?それともブンちゃん?」
「ブン太だ」
やっぱり。
彼はそういう人だ。
監視も切捨ても自分からはしないくせに、何となくコッチの嫌な方向嫌な方向へもって行く。
まるで「離れろ」と宣言するかに。
「……どうするべき?」
「俺に聞くか?……だが、一応対策は練った。――二人とも英語だからな、一人は柳生とジャッカルに預けた」
「残り一人ね。了解」
まさか、残りの一人に蓮ちゃんが「あたり」を置いてくるとは思わなかったから頷いたのだけれど……
* * * *
to be continued……
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