File:08    〜 SIDE Kunimitsu Teduka

 数日経過後――

「甘いっ」

 身体が左に逸れる。
 一瞬の浮遊。
 左肘が、冷たいコンクリートにぶつかる直前に、何とか受身を取った。
 あまり好きではないながら、祖父の教えに従い体育で柔道を選択してよかった、と、場違いなことを考える。
 払おうと手を伸ばした髪の毛からは勝手に水滴が落ち、それを右目で見ていた。
 もしかしたら、一瞬、意識が遠くへ行きかけていたのかもしれない。

「平気か?」
 
 何とか身体を起そうとすると、すぐ前、跡部が手を伸ばしてきていた。
 それを借りて、さっと立ち上がる。
 汗を拭って、俺の攻撃を交わした相手(反動で俺を吹き飛ばした相手)をみれば、彼は飄飄とした顔で、

「あー……筋は悪くないんだよね」


 そう漏らし、ため息をつく振りをした。

(不合格、か……)

 そういうことらしい。
 それにしては、跡部がこんな訓練をクリアできているとも考えがたかった。
 『危険とは隣り合わせだし?何よりこれでテニス用の能力、体力うんぬんもなまらないですむよ?』
 挑発的にいわれて開始したトレーニングだが、軽く始められる類のものでもなかった。

(たしかにテニスで必要なあらゆる種の柔軟性や瞬発力は養われるだろうが……)

「『卑怯』って言いたい?」

「………」

 文句をいうつもりも、筋合いも……はたまた立場でもないが、その言葉が一番ぴったりくる。
 
「跡部君はこれで、わりと悪役の素質があるけど、君は全然だもんな」

「おい、千石」

「いいから、跡部は黙ってて。彼の面倒を見ることは任せても、俺は君の『上司』だよ?」
 
 「ちっ……」と、跡部が舌を鳴らすのが見えた。
 ――仕方ない。  
 表情にはそう書いてあるが、だからといって完全に納得などしていないのだろう。
 
「手塚君、もうちょっと真面目にやってくんない?」

「何がだ?」

 俺はこれで精一杯だ。
 少なくともそのつもりだったのだが、千石は射抜くような視線で――だが笑顔なのが恐ろしい――「足りないよ」と無言のうちに告げる。

「卑怯って思っていいから、自分も卑怯になれよ」

 唇の端が上にそれる。
 千石は、有無を言わせない調子で、

「跡部君と実践してみる?」

「なっ」

 驚愕したのは、跡部の方だった。
 俺には何がなんだか分からない。
 実践、とはなんだ?
 そんな――殺し合いでもするような組織なのだろうか。

(まさか……。日本にシンジケートなどあるわけもない……)

「もう一度頼む」

「ふうん……ま、いいか」

 千石が構えた。
 もう一戦なら相手をしてやるよ?ということらしい。
 
 始めてきく、そして体験する訓練――
 あらゆる体術を使っての、これは追いかけっこだった。
 逃げれば勝ち。
 逃げる前に、相手を昏倒させればなおよし。
 ルールは単純だ。
 何のために使われるのかわからなくとも、クリアする必要がある。
 情けないが夕食の為だ。 
 これは切実な問題だった。
 あれから、既に三日間、ろくに夕食をとっていない。
 温情で、後から跡部が食事をもってきてくれるのだが、そろそろそれはばれているだろう。

「――跡部も、わざと負けたら次はない……」

 開始の合図とばかりにぽんっと、俺の肩を叩いてから、千石は跡部に告げた。

(やはり見破られていたな)

 同時に、

「真剣になりなよ」

 横から蹴りが繰り出され、俺はぎりぎりで避けた。
 オレンジ色の髪をはらった千石の体力は、学生時代と比べ物にならなかった。
 今更だがテニスをなぜ続けていないのか理解が及ばないほど、テニス向きの身体が作られている。
 しかし、『どうして、千石が跡部よりも上の地位にあるのか』という問題含め、全てをさきほどの表情、この機敏さの内側に見える「したたかさ」が答えているように思えてならない。
 昔はうっすらと悪者には一番似合わない光の存在だと、そう思っていたが、間違った認識だったのだろうか。
 だが完全にヤツを否定もできないのは、千石が俺に「頑張れば?」と冷たい調子でいいながら横を向く一瞬、どこか寂しそうに見えるからかもしれない。
 無理をしている――などと、俺はいえる立ち場にはないが……

(跡部……か?)

 試合にならない試合――当然のように千石の圧勝だった――を終えて、ふとまたそんな表情を見せる千石に、その視線の先を追えば、負け続ける俺に眉宇を潜める跡部の影があった。
 
「ここまでにしよう。夕食は俺が持ってく。部屋で勘弁して」

「負けたのにそこまで贅沢は望まない。そもそも、食堂を使ったことなどまだないぞ」

「はは、そうだったね。
 それから、外のうまい店のを食べたいから跡部君買ってきてくれない?」

「あ……」

「詳しくは後でね」

 こういう言い方では誤解を招くかもしれないが、千石は跡部にかなり気を使っていると思う。
 罪悪感とでもいうのだろうか。
 あるいは心配か。
 俺に対しては欠片もない感情があるように思えて、俺は二人の間に割り込めずにいる。
 新参者だから、ではない。
 跡部は俺の直属の上司もどきの地位になった。
 宣言して、千石を抜きにいくつかの詳しいこと――ここで必要なことを習ったが、そのときですら、跡部も千石には遠慮していた(あの跡部が、だ)
 千石もどことなく気にかけている。
 この瞬間も……。

「ああ」

 はっきりと答えた跡部の様子を伺って、はにかむような笑顔を見せたことに、千石本人は気付いていないのだろうか。

「じゃ、後で」

 解散の合図に、俺はあらかじめもらったスポーツ飲料を飲みほして、タオルを頭にかぶせた。
 まずはシャワーだ。
 さっさと逆方向にむかった千石と、「じゃあな」と目で合図した跡部と別れて、俺は汗を流しに向かった。

TO BE CONTINUED =SIDE ???


彼にとっては未知の世界……

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