カンパネラ  1、イントロ    :カイザレ

 さて、物語を始めよう。
 ここにたどり着くまでの物語。
 とびきりのロマンスかはたまたおぞましきホラーか、解釈は読み手に委ねる。
 舞台は中世と近世のはざま栄華を極めたルネッサンス期。
 後に統一国家となる、長靴の型の半島には五つの勢力が牽制・共闘していた。ベニス共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、教皇領、ナポリ王国……
 そのひとつ教皇領はバチカン宮殿に君臨し、富と権力の象徴だったボカロジア家。
 不滅と言われた一族の末路、それに纏わる美しく血塗られた兄妹愛、それがメインだ。

 スパイスとなるのはカンタレラ――ボカロジア一族門外不出の、その毒は、たちの悪い毒ことに、効き目のほどを調節できた。
 少量ならば催淫剤。
 一定量を越せば即死。
 更に蓄積の仕方で数時間から数日、数ヵ月、数年ごしの死まで……。神の名のもと、命のときを操る《毒蛇》の一族、彼等が成り上がるその夜から、物語は幕開く。


 時は1549年
 エスパーニャ、バレンシアの田舎貴族を一代にして名家にした枢機教、ドロリーゴ・ボカロジア、彼は今、他者の追随を許さない地位に上ろうとしていた。
 法王の訃報から規定の年月、選挙の日を向かえた。宮殿広場には今か今かと結果を待つ民衆が押し寄せる。
 そのさまは広場から街の中心を通る道(両脇に貴族の邸宅が立ち並ぶ)からも窺い知れた。

「へぇすごい」

 ドロリーゴの二番目の息子、カイザレ・ボカロジアは、早くも就任祝いの準備に入った屋敷を抜け出そうとしていた。商人が出入りする裏門は広場に通じる民衆の道だ。
 賑わう人々の様子をうかがいながら食材やお返しの品を搬入する一行の会話に耳を傾けながら様子をみる。
 とっさにひっかけてきたケープのおかげで、雇い主の主とはまず気付かれないだろう。ベルベットの布地に絹を縫い付けたケープは以前行商人が忘れて帰ったものだったが今や誰も覚えていまい。ベニス製の青い織物は、ボカロジアの宅には些か地味で、家紋の赤い槍にはそぐわないとドロリーゴは購入を断った。

 ところで、カイザレの目と鼻の先、普段は無口な商人たちが一足はやい春に口を軽くしていた。パーティー用の酒樽をこっそり開け、駆け付けに一杯やる気でいる。

「結果はまだか?やはり旧家が引っくり返すか」

「いやいやまだ分からない。ドロリーゴさまの勢いはこのとおり」

 金貨を叩き、ひとりが本日の売上げをほのめかす。ビア樽のような巨漢は酒屋のオヤジ。ワインを受け取り続くのは、横のノッポ、漆器屋だ。だが彼もまだワインに口をつけない。

「国を富ませ神にしかるべき芸術を返す。それが我等ロマーナの在り方だ」

 だが、と断りをいれ、思わせぶりにグラスを一つ隣に回す。

 「黒い噂もある」

 「最有力の暗殺か?確かに偶然にしては出来すぎだが」

 杯を渡されたハゲ頭は、注意深く匂いを嗅ぎ、慎重に中身をすする。

「それこそ旧貴族の常套手段だ。それにとくに不信はなかったというじゃないか?
ああも家族を大切に慈しまれる方が誰かの悲しみをつくるはずがない」

 ハゲの無事を確かめながらも更にグラスを透かし見る長髪。行動とセリフが裏腹な彼は宝玉つきの短剣を搬入したばかりの鍛冶屋。短剣がただのお飾りではないと知る唯一の人間だ。

「どのみち決まりだろう。そうなりゃ黒かろうが白かろうが同じだ。ボカロジアは安泰だよ」
 
 うちも商売が助かる。
頷く彼らの真意は分かりやすい。黙れば利益、口にすれば死――ボカロジアの文言はこの頃まだ知られていなかったが、耳のはやい商家には暗黙の了解として受け止められている。

 ――ましてや身内に、その諸行が伝わらないはずがない……

 カイザレは薄い笑みを浮かべて、彼らに一歩近付いた。
 このタイミングで闇をも牛耳る雇主の、息子が現れたらどんなに驚くことだろうか。不意に悪戯心がわきあがったのだ。

「さて」

 タイミングをはかりにかかる。
 ……すると、そのとき噂話がぴたりと止まった。
 原因は前奏もなく漏れてきた聖歌だ。
 音に誘われて見上げれば屋敷に隣接した工房と小さい教会。
 選出の煙にはまだ早いが、だからこそ、今のうちボカロジア家の支持を見せたいものたちがいる。

「随分気が早いよなぁ」

 カイザレはわずかに顔を歪ませた。
 ついでに肩も竦ませてみる。
 しかし残念なことにそんな仕草すら、何を考えてのことかイマイチ読めないのが彼だ。やる気ない口調には始終うさんくささがついて回る。

「きな臭い噂の真実がどうあろうと、益を追う者は既にボカロジア流を心得ているようだな」

 やがて歌声はカイザレの考えに呼応するように範囲を広げた。
 未定の祝いを準備してきた商人たちも、それに倣い、堂々と喉を振るわせる。俗物たちの聖歌が重いロ―マの空に広まった。

カンタレラ、事実は闇の中
カンタレラ、全てが闇の中
闇は光の中に
光は闇の中に

 カイザレも、アリアの歌詩を「カンタレラ」とかえて口ずさむ。
 この段階では、カンタレラが何を指すか漠然としか知らなかった。
 ただ父が我が家に唯一の秘宝として教えてくれた名を口走ったようなものだ。だが何故かこの偽りだらけの祭典にはその響きの方があっている気がした。
 広場にほど近い場所では揺らめく旗に既にボカロジアの家紋が写る。
 予想以上のその数。旗のひとつに、ふとカイザレの脳裏には、赤みがかった茶色の髪の持主が重なった。自由に揺れる、奔放な牛のマーク――今日唯一屋敷に立ち入れぬ姉、メイコは結婚から出戻った後別宅を与えられ、ボカロジアと一線を画して生きている。
 父の目を盗み、(ひょんなことから)再び会うようになったのだが、カイザレは、線の細さのわりに強かな姉に、相変わらず敵わずにいた。あくのある口調も緋色に光る目も、鋭い舌鋒のわりにいたずらな調子も……一族の中では例外的なもの。
 彼女は、いったい今日という日をどう迎えているのだろうか?

「お祝いの席自体には興味がないんだろうが……」

 会えなくなって久しい兄弟……ことにお気に入りの妹、ミクレツィアのことは懐かしんでいるに違いない。

「どうにかしてやるか」

 少し考えて、カイザレは元の道を引き返した。
 父に言われ、このあとミクレツィアをエスコートすることになっている。
 彼女は本日初めて、晩餐会に貴姫(レディー)として出席することだ。

 ――ならば化粧も、髪結いも必要だろう。その点、母がいない今、メイコは打ってつけの見本、だろ?
 
 純粋に着飾った妹を見たい。よりセンスのいい女性の見たてで飾られた状態でみてみたい誘惑にかられるのも偽れぬ心情だったが、理由は何にせよ、実行の価値がある。
 思いつくままに屋敷の中に戻れば、外から人々の歓声と、けたたましい馬の鳴き声が響いてきた。
 旧貴族の到着を示す、ありとあらゆる音が、発表のときを知らせている。
 だがカイザレは外に戻ろうとは思わなかった。

 パーンパパーン

 煙が上がり、ひとびとが祈りを捧げる。宮殿のバルコニーに人影が立つ時それは最高潮になる。ついに血まみれの絨毯にドロリーゴが誕生する刹那、彼の息子はすべてを無視し、緑の髪の少女のもとに駆けていた。
 ビロードの絨毯を踏みつけ、金色の果物杯から少女の乳母が欲しがったリンゴを取り出す。それを賄賂に、発表前後、この時間を利用して書状を認め、御者に託せば……メイコも晩餐の準備時刻までにこちらに付ける。
 首尾よく、もぐりこみ乳母を遠ざけてから、

「ミク……」

「なぁに?」と振り向く稚い仕草に苦笑して、「姉さんにあわせてあげよう」と教えれば、少女は案の定明るい表情を見せた。
 大切な妹――ミクレツィア。
 他にも兄弟はいたが、奈何せん折り合いがそこまでよくない(彼が幼いながらに自分の上になる血統であることが大きかった)だけに、彼女は宮殿唯一の癒しだ。

 ――こんな僕の心情などとっくに父にはお見通しだろ?

 かのドロリーゴの野心は嫌になるほど読めたから、ただで彼女にあわせてくれるはずがないことも理解はしている。そこにきてメイコを投入すれば自体がややこしくなることも……。
 わかっていてなお、青髪の青年は静かにケープを折りたたみ、彼の最愛の人の指先にキスを落とした。
 メイコとは違うがこちらも先日再会したばかり……小さいうちに離れた妹は可愛らしく、記憶の内側にあっさり残る幼い面影を打ち破ってくれている。相手はお人形遊びをねだる少女ではなく……洗練された一人の女性のように見えた。