「おお、ミクレツィア!久しぶりだな。元気にしていたかい?相変わらず美しい」
祝砲の数刻前。
内示が出ると同時に、彼は娘を抱き締め、賛美した。
多少大袈裟にもみえる仕草のせいか、五十をすぎた彼の法衣は一層目立った。
色は緋よりも上。神の代理人、法王その人を指す。アレキサンドレ6世、旧姓ドロリーゴ・ボカロジアは娘ミクレツィアを文字通り溺愛していた。
ビーナスに見立てた彼女の肖像は後の貴族にコレクションとして長らく重宝されるようになる。
ところでそのミクレツィアは、彼の来訪よりもそれに伴う情報に目を向けていた。
法王はミクレツィアを大切にしていたが、わざわざ部屋に出向くには時期が不自然すぎる。
その椅子を手に入れたとて祝典はこれからだ。結果的にライバルに競り勝ったとしても枢機卿の任命も終えておらず内部はまだまだエスパーニャ系の「身内」よりもフランツェなど他国の影が濃いのだ。ボカロジアの財に跪いた協力者ではなく安定した地盤を固める大切な一月。祭りの最中とて計算しない父親ではないことを、ミクレツィアは本能的に感じていた。
――……ーん?
喜びながらも首をかしげる。
彼女の勘は、単なる違和感程度であれど――政治的推測というには無理があっても、一度も外れたことはない。
「お忙しいのにありがとう……でもナゼ?」
言い方は一見失礼だが「率直がミクレツィアの良さ」
父も言ってくれたから、遠慮は無用。
ミクレツィアは思い切って正面から法皇そのひとに尋ねた。
実際、無邪気ですらあるその言葉に、ドロリーゴは気を悪くするでもない様子だ。
「晩餐会にでなさい」
微笑んで、そのあと、頼むように命じた声は、さすがに断りの想定すらなかったが――
「綺麗なドレスも用意させよう。トッツィア作の、歌姫Prima も羨ましがるような」
そこはドロリーゴ。
「飴」もきちんと用意されている。
晩餐会はレディーとしてのお披露目をかねる。年頃の少女はそれだけでも憧れるものだ。
ましてや街を賑わす麗しのオペラ歌手御用達ブランドとなれば、ミクレツィアとて悪い気はしない。「飴」につられて、すっかり「違和感」のことなど忘れた。
「でもお髪は?ブローチは?
どうしよう……お母様以外にセンスがある先生なんてない……」
「そうか。私としたことがすっかり忘れていたね」
ドロリーゴもドロリーゴで、「別」の目的を忘れている節がある。
娘の可愛い心配に破顔さえしている。
彼女の言うことであれば何でも叶えるつもりなのだろう。
……とはいえ、さすがの法王もそういった女性ならではの心配は不得意分野。
解決策を考えあぐねたらしく、やがて首をふって「私にはお手上げだ」と他人へ手配を委ねることを告げた。
「カイザレに任せよう。どうせ戴冠式にはあわせようと思っていたんだ。兄妹の再会が早まるのも悪くない」
「お兄様に?」
「ああ」
カイザレ。
その響きに、思わず口元を緩ませる自分をミクレツィアは止めもしない。
弾んだ声をもらし、ほほを薔薇色に染めた。
今も昔も変わらず、カイザレは特別なのだ。
ミステリアスな冷たさを噂される兄カイザレその人は、一歩間違えば悪評になりかねないほど妹を溺愛していた。
そして、それをミクレツィア自身も知っている。
特別病気がちだったわけでも気が弱かったわけでもなかったのに、さみしくないよう目を配ってくれ、たびたび父の代わりにと嘘をつき来訪してくれた兄。また、ときにはボカロジアの悪癖、身内に対しても警戒する必要があること(父親に裏があること)をそうとはなくほのめかし、用心させてくれた。
もちろん、いまのいままで、このとおりドロリーゴにもひどい仕打ちをうけてはいないが。
ただ、ミクレツィアにとって、カイザレは父親以上に安心できる絶対的存在なのだ。
――格好よかったお兄様……
忙しさでここ数年は手紙でのやりとりメインとなっていたが、離れている間、どんなに魅力的な成長を遂げていることだろう。
「お前(実妹)ですらこれだからな」
法王が漏らす言葉の真意は分からない。
だがカイザレのもてっぷりは何となく理解できた。
「あれなら昨今の女性の流行にも詳しいだろう。何せ引っ張りだこだ」
「人気者なの……?」
――なら踊りの相手なんてしてくれないかな?
自分だけのヒーローのつもりでいた兄がどう変わったか、その刹那、ふっと心配が胸におしよせた。
俯いた碧眼に不安の色が映る。
それが年相応の少女らしさをより一層光らせる仕草だとミクレツィアは知らない。
横の法王は、「よくぞ純粋に育ってくれたね」とほくそえむことも。やがて、本格的にその瞳に涙があふれるのではと、やりとりを見ていた周囲の従者が心配する頃、
「安心しなさい。お前のエスコート役はカイザレに任せたから。彼はよろこんでうけてくれたよ」
静かに顔をあげさせて、そうたくらみの一端を告白した法王の真の願いが、彼女の「幸せな」政略結婚であることも……。
納得したように視線をあわせたミクレツィアの肩を軽く叩いて、法王はほっとひといきついた。
彼女に与えたいのはあくまで「幸せ」
しかし、このままでは少女は性急で野心的な男を厭うだろう。このまま、婚約者をあてがって大丈夫なのか疑問に思った法王は、ここでとんでもないアイディアを披露することになるのだが……この時点でミクレツィアは、ただ兄との再会を夢見ていた。
束の間の恋人との逢瀬でも待ち構えているかのように。