この時代、芸術はかつてのギリシアに向けて暗黒時代を吹き飛ばすように一気に花開いた。音楽もまた、ブルゴーニュやフランドルから着実にローマに向けて広がりを見せている。
大きく屋敷をくりぬくように作られた円形のフロアーを、歌にのせて人々はステップを踏む。時に陰謀を、時にささやかな予定調和の恋愛を含んで。
だが今宵はどんな陰謀も目立ちはしまい。
祝典の主催ドロリーゴがここに至るまでの陰謀に比べれば児戯に等しい。
「ならば恋はどうかな」
ミケレオンがカイザレに問い掛ける。
腐れ縁の幼馴染み。師弟とも友人とも従者ともライバルとも付かない相手で遠縁だが一応にボカロジアの血が混ざっているという。
「さあ。これだけご婦人がそろってるんだからまああるんじゃないか。どのみち貴族はうまく仕組まれて出会い、自然に、恋という錯覚に落ちさせられる」
「大切なのは家と家のつながりか」
「その点お前大変だね」と癖のあるアクセントでミケレオンは周りに視線を投げた。
カイザレを見つめる熱っぽい女性、彼女たちの気持ちとて家が仕組んだ策略にすぎない。カイザレとて心身とも健全な青年だ。遊ぶに吝かではなかったが、いろんな意味で狙われる一夜の恋に興じる趣向は持ち合わせていなかった。
「大変なのは女性だ」
【ボカロジアの】という修飾を抜かしても、事実は伝わる。遠巻きに女性を見やるカイザレの瞳は驚くほど冷たい。
と……不意に音楽が切り替わった。ナポリ風のカンツォーネや優美なタランテラに流行の影が見えてからヴァチカンでは先ほどから流れていたような爽やかなポルカが目立つ。そしてまた新たに演奏が始まっているバラードが、艶やかに貴族の催しを彩り始めている。
弦のスタッカートが小気味良い。
近付いてくる女性をあしらいながら、教皇領随一の貴公子はその舞台の中央に進みでる。
人々が息を飲むその先には既に天使がいた。
トッツィアのベールに包まれたドレスを纏う、まるでミケランジェロの彫刻かラファエロの聖母。
可憐なボカロジアの姫は夢見がちな瞳で、近付くエスコート役に気付き……ゆったりと微笑んだ。
その途端、生まれたての芸術品ミクレツィアは息吹く。やっと人間に戻ったように、あるいは女神が人に化けたように――ようやく血が巡り、息遣いが聞こえるようだった。
――いくら姫君のお披露目にしてもお膳立てがすぎる。
カイザレは心のなかでうめいた。
声の出せなくなった一瞬をやりすごし、彼女の白い手をとる。
曲の主導権はヴィオラからピッコロファゴットら管楽隊に渡され、つぎつぎ展開していた。
くるくる周るロンドのようで、繰り返しと転調に頼らない不思議な曲調。
「……ミク……」
囁くように神の代理人の息子はその名前を呼ぼうとし……他ならぬ本人に止められた。
唇にあたる指先の感触がやけに生々しい。先ほどどんなに飾った女性をみても動かなかった鼓動が、脈がわずかに乱れていた。
真珠のように慎ましやかな光を映した肌は、しっとりと自分の腕に収まり、彼女の珊瑚の唇が薄く開く。
歌うような声色はか細く、聞き取れない。
――何を……?
踊りながら少し背を屈めかけるカイザレの前に今度ははっきりと、
「歌って」
ミクレツィアのお願いが届いた。ねだるような仕草……
――首に巻き付かれるか……
警戒したカイザレは、妹な無邪気ともはしたないとも取れる行為を回避すべく、慌てて頷いた。
歌えばいいんだろう?
妹よりどことなく得意でない意識があったものだからなかばやけになっていたフシがある。
口を開く。
妹は等の昔に何ごともなかったかのように首に回した腕を緩め、ステップを切り換えていた。
初めて最初の段落とまるきり同じ旋律がつむがれる。
諦めた兄は他に聞こえないように、妹に向け、歌声を紡いだ。
ボカロジアの毒は甘い。有名な通説とともに、後にカンタレラと呼ばれる曲。舞踏会で、血を伴わずに演奏されたのはこれが最初で最後だった。